農業と科学 平成18年10月
本号の内容
§微量元素よもやま話[1]
ホウ素
京都大学名誉教授
高橋 英一
§北海道における施肥(6)
平成-適正化ヘ
(財)北農会
会長 関矢 信一郎
§のり面緑化工の変遷について[3]
-のり面緑化工と導入植物の変遷-
エコサイクル総合研究所
中野緑化工技術研究所
中野 裕司
京都大学名誉教授
高橋 英一
岩波生物学辞典の「微量元素」の項を引くと生体内に微量(ppmレベル)存在する生元素(生命活動に関与する元素)として15元素(B,F,Si,V,Cr,Mn,Co,Ni,Cu,Zn,As,Se,Mo,Sn,I)があげてあります。ここではその中からホウ素,モリブデン,セレン,フッソ素,ヒ素の5元素と,かつてメンデレーフがエカケイ素として存在を予言したゲルマニウムをとりあげ,それらにまつわるお話をしたいと思います。
ホウ素という元素が発見されたのは19世紀の初め(1808年)ですが,ホウ素を含んだ化合物は古くから知られていました。それは天然に産出するホウ酸のナトリウム塩であるホウ砂で,中世には金属の接着などに利用されていました。さらに18世紀の初め(1702年),ホンベルグ(W.Homberg)というオランダの医者がホウ砂を硫酸と熱して,「ホンベルグの沈静作用をもつ塩(sedative salt)」と呼ばれるものをつくりました。これはホウ酸のことで,「塩」とよぶのは化学的に正しくありません。
その後このホウ酸を金属カリウムで還元して,1808年にホウ素が元素として取り出されました。ホウ素の単離は三人の化学者によって,同じ方法で殆ど同時に行われました。すなわちフランスのテナール(L. J. Thenard)とゲイ・リュサック(J.L. Gay Lussac)が1808年6月21日に,イギリスのデーヴィ(H.Davy)が同年同月30日に単離に成功したことを発表しました。デーヴィは9日遅れていますが,単離の手段となった金属カリウムをつくったのはデーヴィでした。彼は前年の1807年10月,水酸化カリウムの溶融電解によって金属カリウムの単離(カリウム元素の発見)に成功していました。
自然界に存在する元素の多少の目安になるものにクラーク数*1があります。ホウ素のクラーク数は0.001%(10ppm)で88元素中41位ですが,海水のホウ素濃度は4.6ppmで,溶存元素中10位と比較的高い値になっています(因みに海水中のリンは17位の0.07ppmに過ぎません)。土壌中のホウ素濃度は10(2-100)ppmで塩類土壌に多い傾向があります。天然に産するわれわれに馴染み深いホウ素化合物としてはホウ酸とホウ砂があります。
ホウ酸は火山活動のあった地域に産することが多く,しばしば温泉に伴って地表にもたらされます。天然のホウ酸は1778年,イタリア中部トスカナ地方の温泉で発見されました。分析の結果この温泉は0.5-1.0%のホウ酸を含んでいました。温泉からは強い硫黄臭の蒸気が立ちのぼり,地面はところどころ白い塩類の沈澱で覆われ,その中にホウ酸の結晶が見つかりました。
その後この天然ホウ酸はピサからシエナの間のおよそ100平方哩の地域で産出することが分かり,1818年になってラルデレル(Francesco Larderel)伯爵という貴族がトスカナ地方のホウ酸工業を起こしました。このホウ酸はイギリス,フランスに送られ,そこで純度の高いホウ砂にかえられました。そして19世紀の末にカリフォルニア産のホウ砂に取って代わられるまで,イタリアは最大のホウ酸輪出国の地位を保っていました。
ホウ砂は火山地帯の他に,塩湖や砂漠地帯に産出します。ホウ酸が発見されるまでは,ホウ砂をつくるのにテインカル(tincal)と呼ばれた鉱物が使われていました。これはチベットの荒原に産するホウ砂で,羊の背に積んでヒマラヤを越えカルカッタまで運ばれ,そこからヨーロッパに輸出されていました。ところが19世紀後半,カリフォルニアのモハーべ(Mojave)砂漠に,ホウ砂の大鉱床が発見されました。これについてイギリスのロボッタムという探鉱家の興味深い報告があります(Arthur Robottom:The History of Californian Borax,Chemical News 244-246 1886)。
彼は1874年,ネヴァダのホウ砂探査の帰途サンフランシスコで,モハーヴェ砂漠にホウ砂を産する塩湖があることを耳にし非常に興味を覚えました。そこで自ら調査することを決心し,サンフランシスコから船でロスアンジェルスヘ赴き,そこから騾馬に乗って内陸部ヘ向かいました。
目的地の塩湖(現在サールズ湖とよばれている)は,ロスアンジェルス北東140哩余りのところにあり,デスバレー(Death Valley)の西を走るスレート山脈(Slate Range)の南西山麓近くに位置しています(図1参照)。彼は1日12~14哩の速さで騾馬の旅を続け,ようやくスレート山脈から42哩のところにあるジム・ブリジャー*2の小屋に辿り着きました。その辺りはグリースウッドと呼ばれる低木とガラガラ蛇以外は生き物の姿が見られない荒涼とした風景であったとロボッタムは記しています。

ブリジャーの小屋に暫く滞在したあと再び旅を続けた彼は,半ば塩に覆われた大きな谷地に入り,ついに目指す「ホウ砂の湖(Borax Lake)」につきました。そしてそこで,この塩湖の発見者のサールズ兄弟(John and Dennis Searles)に会いました。サールズ兄弟は1849年に起こったゴールドラッシュの一旗組(Forty-Niners,49年組と呼ばれる)の仲間で,1873年にこのホウ砂を産する塩湖を発見したのでした。
ロボッタムはサールズ達と調査をし,湖の中央に長さ約5哩の塩の層があり,数千エーカーの地面が厚さ3インチから2フートの厚さで天然の硼砂に覆われていることを確認しました。彼はカリフォルニアを去る前に,この土地(borax land)1280エーカーを購入し,採掘したホウ砂を騾馬の背で420哩離れたサンフランシスコまで運び,そこからイギリスヘ積み出しました。
こうしてモハーヴェ砂漠のホウ砂は始めて世にでましたが,その後この辺りは世界最大のホウ酸塩の産出地になります。因みにその中心地の町の名は,Boron(ホウ素)です。
今から二千年の昔の古代ローマでは,しばしば剣闘技が催されていました。その際,血に汚れた円形闘技場の地面をきれいにするのに,皇帝のネロは砂を撒くかわりにホウ砂を撒いたといわれます。このことは,19世紀英国の政治家で劇作家,小説家でもあったリットン卿(1803-1873)の代表的な作品「ポンペイ最後の日」(1834)に記されていますが*3,このホウ砂はどこからもたらされたのでしょうか。
それはさておきホウ砂は,金属の溶接(鑞付けの助剤)や陶磁器の釉薬,特殊ガラスや琺瑯の原料などとして古くから利用されていました。また先に述べたように18世紀にホウ酸が手にはいると,そのマイルドな殺菌,防腐作用が保健医療用に利用されるようになりました。例えば目薬,うがい薬,傷口や爛れの手当に用いたホウ酸綿,ホウ酸軟膏,更にはゴキブリ駆除用のホウ酸団子やカビの生えないホウ酸入りデンプン糊(”不易糊”)などです。
また食品の保存手段であった塩蔵に代わって,ホウ酸(ホウ砂も)が防腐剤として,ソーセージ,ハム,マーガリン,バター,クリーム,ジャムなどいろいろな食品に用いられるようになりました。しかしその後ホウ酸入りの食品をとり続けると慢性中毒を起こす危険のあることが分かり,欧米や日本では食品への添加は禁止されました*4。
一方ハイテク時代の新しいホウ素の利用も生まれています。その一つにホウ素の原子核の特性を生かしたものがあります。
ホウ素には原子量10の10B(19.9%)と11の11B(80.1%)の2種の同位体がありますが,10Bは低速から高速にわたる広いエネルギ一範囲の中性子(n)を吸収できるという特性をもっています。

これを利用して金属ホウ化物や炭化ホウ素が,中性子遮断材や原子炉の制御棒として原子力施設で用いられています。
このホウ素の性質は医療の分野で,脳腫瘍の治療にも活用されています。「ホウ素の中性子捕獲治療(Boron Neutron Capture Therapy」BNCT)」と呼ばれるもので,ホウ素を含んだ脳腫瘍細胞に親和性の高い化合物を患者に投与し,それが脳腫瘍細胞に取り込まれた頃に腫瘍部位に絞って中性子束を照射し,ホウ素の原子核に吸収させます。するとホウ素は分裂してリチウム(Li)とアルフア粒子(He)になり,アルフア粒子がガン細胞を効率的に叩きます。しかしアルフア粒子は飛距離が短く,核反応で発生した場所から他の細胞を貫通することはないので,健康な細胞組織を損傷することはありません。
ホウ素が植物体中に最初に発見されたのは1857年のことで,それはヤブコウジ科のイズセンリョウ(Maesa picta,N.O.)の種子でした。それから大分たった1888年に,多くの産地のワインに例外なくホウ素が検出され,保存料としてのホウ酸の添加が疑われました。そこで原料のブドウ汁を集めて分析したところ,ホウ素はもともとブドウに含まれていたことが明らかになりました。同じ頃ビールや砂糖大根の絞り汁(sugar must)にもホウ素が見出されましたが,これは原料であるホップや砂糖大根に含まれていたものでした。
これを契機にいろいろな植物についてホウ素の存在が調べられ,19世紀の末には,ホウ素は広く植物界全体にわたって分布しており,植物の種類によってホウ素含量は大きな差のあることが明らかになりました。たとえば初期にホウ素の存在が認められたブドウやホップや砂糖大根はホウ素含量が高いが,禾穀類(オオムギ,コムギ,イネなど)は著しく低いことが分かりました。
これと平行してホウ素が植物の生育に与える影響をみるために,栽培試験も行われましたが,当時は現在の微量必須元素の試験のように,ホウ素を培地から極力除くのではなく,ホウ酸添加の影響をみるのが一般でした。したがって生育に何らの影響も見られないか,添加量が多すぎて害作用がでるかという結果にとどまった試験が多かったのも当然でした。
しかし中にはホウ酸の添加量を広範囲にかえた水耕試験で,極めて低い濃度のときに生育が促進されるのを認めたものもありました。図2はロザムステッド試験場の女性botanistのWinifred Brenchleyが1911年にオオムギについて行った結果です。これをみると200ppmのホウ酸(H3BO3)添加で,生育は無施用に比べて著しく阻害されましたが,添加濃度を4ppmに低下させると生育は回復しています。そして0.1ppmまで生育はかわらず,0.04-0.01ppmの間では生育促進が認められ,無施用でもとに戻っています。この結果からホウ素には「刺激効果」があると推測されましたが,明瞭な欠乏症を発現するには至りませんでした。オオムギのホウ素要求量は小さいので,培養液に混入していたホウ素で間にあっていたものと思われます。

1920年頃までホウ素の明瞭な欠乏症は知られず,むしろ害作用の方が問題でした。とくに第一次大戦(1914-1918)中にアメリカで発生したカリ肥料に含まれていたホウ砂による農作物被害は深刻でした*5。しかし戦後間もなく,偶然のことからホウ素欠乏症が発見されました。
ロザムステッド試験場の昆虫部のDavidsonは,1920年に水耕したソラマメにいろいろな無機化合物を与えてアブラムシに対する摂食忌避効果を調べていていました。その際,少量のホウ砂が生育を促進することを認めたので,植物部にその確認を依頼しました。BrenchleyのもとにいたKatharine Waringtonはこれを担当し,詳しい栽培試験を行った結果,ソラマメの生育は僅か0.08ppmのホウ素があれば正常であるが,全く与えないと特徴ある異常症状を呈し遂に枯死することを認めました。またホウ素は生育の全期間にわたって必要であったことから,その効果は刺激的なものというよりも栄養的なものであるとし,1923年のAnnals of Botanyに発表しました。これは後にホウ素が植物の微量必須元素に認められた年とされます。
しかし前述のように発表当時は有害作用の方が問題であり,マメ科植物の特殊な栄養生理(共生的窒素固定など)がホウ素を要求するのではないかと考えられたりしていました。ところがその後ヒマワリ,ワタ,オオムギ,ソバ,ヒエ,アマ,カラシなど広範な作物についてホウ素の必要性が水耕で認められ(Sommer & Lipman 1926),また野外で原因不明の生理病とされていた砂糖大根の「心材腐朽」はホウ素欠乏が原因で,ホウ素施用によって治癒できることが発見されるにおよんで(Brandenburg 1931),ホウ素の必須性はようやく一般の認めるところとなりました。
このホウ素の例が示すように,微量元素が必須元素になるまでには有害元素として登場し,ついで刺激元素と見なされる段階を経るのが一般でした(ホウ素の他に銅,亜鉛,マンガンなどがある W. E. Brenchley lnorganic Plant Poisons and Stimulants,Cambridge Agricultural Monographs 1927)。
そして先ず特定の作物について欠乏症が水耕試験などによって明らかにされ,ついでそれが各種作物に拡張され,さらに野外の経済作物にも欠乏症状が発見され,その元素によって治癒されることが証明されて始めて必須性が一般に認められます。その後植物生理学,生化学分野での研究によって必須性の理論的裏付けがされて,微量必須元素としての評価が確定します。
最後にホウ素と生物の関わりについて考えてみたいと思います。ホウ素はこれまで植物を中心に,いろいろな現象が明らかにされてきましたが,主なものは次の三点に要約できます。
1)微量のホウ素は植物の生育に必須だが,動物には必要でない。
2)植物のホウ素含量,ホウ素要求性,ホウ素耐性は植物の種類によって大きな差異があり,ホウ素含量の高い植物は要求性が大で,過剰耐性も強い傾向がある。
3)植物のホウ素欠乏症は根の先端や頂芽などの分裂組織に先ず現れ,茎・葉柄の表皮組織の亀裂,果実や根菜の肥大根の表皮の褐変や亀裂,中心部の変色空洞化がおこる。これらのあるもの(トマトの尻腐れ,落花生の空莢,ハクサイ・キャベツの心腐れなど)はカルシウム欠乏症と似たところがあり,またホウ素もカルシウムも共に,培養液から取り除くと根の伸長は直ちに停止する。
さらに最近の間藤徹らによる細胞レベルの研究では,
4)植物に必要なホウ素の殆どは細胞壁に局在しており,ホウ素は細胞壁を構成するペクチン質多糖の一種であるラムノガラクツロナンⅡ(RGⅡ)と結合している。そしてこの結合サイト(RGⅡ含量)の多少は,ホウ素含量の多少に比例している。
5)ホウ素は2本のペクチン鎖をRGⅡ領域で架橋しており,これはRGⅡに含まれているアピオーズという糖のシスの水酸基とホウ酸の水酸基どうしのエステル結合によって行われる。このホウ素架橋はカルシウムによって補強されている。
(間藤徹 化学と生物 35(12)864-869 1997)
以上の現象的知見から次のような意味が読みとれます。
ホウ素が必須元素としての役割を果たしている場は細胞壁です。したがって細胞に細胞壁を持たない動物がホウ素を必要としないことは理解できます。また細胞壁の成分組成は植物の種類によって異なる(たとえばイネはトマトにくらべてペクチン含量が非常に少ない)ことは以前から知られていましたが,これがホウ素結合サイト,ホウ素含量,ホウ素要求性,ホウ素耐性の植物による違いの原因であったことも分かります。
さらに細胞膜や細胞質にくらべて軽視されがちであった細胞壁の意義の再認識を,ホウ素は提起したように思います。
細胞壁には細胞の吸水によって内側から膨圧が常にかかっており,この力を利用して植物細胞は伸長したり大きくなったりします。また植物の細胞は,細胞壁のおかげでタイヤのように丈夫で弾力性があります。これに対してうすい細胞膜で包まれただけの動物の細胞は軟らかい豆腐のようです。タイヤは接着してゆけば構造物をつくることができますが,豆腐では支えや覆いが必要になります。植物が動物のような骨を持たないのに,木造建築に見られるように丈夫にできている秘密は,細胞のつくり方にあります。
植物の細胞は細胞壁を介して外界と接しています。養水分の吸収も環境中の微生物との相互作用も先ずこの細胞壁で起こります。それだけに細胞壁が健全な構造,強さを保っていることは,植物にとって大変重要です。そしてここにホウ素の意義があるわけです。必須元素は細胞の内部で何らかの役割をもっているのが一般であるのに,ホウ素の役割が細胞の外側の細胞壁に限られている(少なくとも現時点で)という点で,ホウ素は特異な微量必須元素です。
ところでホウ素は植物の微量必須元素になっていますが,必須性が確認されているのは羊歯植物以上の維管束植物です。これも興味ある現象ですが,それには次のような意味があると思われます。
三十数億年前,海の中に誕生した生命は原核生物のバクテリアから真核生物の動物と植物に進化し,更に多細胞化して今から四億年余り前に先ず植物が上陸を始め,動物がこれを追いました。海の中の植物は,光合成に必要な光も炭酸ガスもまた養水分も周りの海水を介してとることができるし,海水の浮力は体を支えてくれます。この恵まれた環境を捨てて陸上に進出した原因として,海水が光を吸収するために起こるエネルギーの不足が考えられます。生物の世界は究極的には太陽の光エネルギーによって養われているからです。
陸上という新しい,厳しい環境に適応するために植物はいろいろな工夫をしました。地中に養水分を求めて根を,地上に光と炭酸ガスを求めて葉を,そして両者をつなぐ維管束を内蔵した茎を分化させました。これが典型的な陸上植物(維管束植物)の姿です。
植物が上方からくる光をできるだけ捕らえて大きく生長するには,高く直立することが必要です。植物は細胞壁を補強することによって機械的強度を維持するという方法をとってきましたが,浮力を失った陸上では直立するのにその強化は一層必要であり,そこにホウ素を利用したと考えれば,何故ホウ素の必須性が維管束植物に限られるのか理解できます。ホウ素は,植物が上陸しコケ植物から維管束植物に進化してから,仲間入りした新しい必須元素であるように思われます*6。
*1 クラーク数 地球の表層を構成するすべての元素(88種類)の量を,重量百分率で表したもの。表層とは,岩石圏(地表から深さ16kmまで),水圏,気圏をさし,地球全体の約7%にあたる。各圏の重量比は,岩石圏93.06%,水圏6.91%,気圏0.03%である。( 大沼正則編 元素の事典 三省堂)
*2 Jim Bridger(1804-1881)は伝説的なマウンテインマン(西部開拓時代に山岳地帯や荒野で毛皮猟や道案内などに従事した辺境の開拓者)で,ユタのソルトレイクを最初に発見し,ロッキ一山脈地方について最も明るいといわれた男であった。1843年に彼がワイオミングのグリーン川の支流につくった砦は,ロッキ一山脈横断のための重要な補給所となり,その跡は今も残っている。(ロデリク・ナッシュ著 足立康訳 人物アメリカ史 上)
*3 ”Pansa regrets nothing more than that he is not rich enough to strew the arena with borax and cinnabar,as Nero used to do.”
(E. B. Lytton:The Last Days of Pompeii. Everyman’s Library p.365)
「パンサ(剣闘士#の試合を催した権力者)は自分がネロが常にしたように,闘技場に硼砂と辰砂を散布するだけの財力をもっていないことを残念に思った。」
#剣闘士(gladiator)」古代ローマの時代,市民の娯楽のために,闘技場で他の剣闘士または野獣を相手に死ぬまで戦わされた奴隷や捕虜や罪人
*4 ホウ酸は昭和3年に「飲食物防腐剤漂白剤取締規則」ができたときから禁止されているが,違反は絶えない。昭和30年代には東京でホウ酸入り煎餅による中毒事件や山口県から東京の市場に運び込まれた蒲鉾や練り製品にホウ酸が使われ,販売停止と大がかりな廃棄処分が行われるという事件が相次いだ。当時の食品衛生監視員の報告によれば,ホウ酸やホウ砂は防腐剤として使われる以外に,煎餅,最中の皮,幼児用のウエハース,ソフトクリームのコーンカップなどにも使われていた。業者によると,製品の出来上がりの色つやがよく,型抜きもきれいに仕上がるので,見かけの商品価値を高めるにはうってつけであるというのが使用の理由である。しかもホウ酸はうがい薬や洗眼用に誰でも薬局で簡単に買えるので違反が絶えない。(昭和44年6月2日,朝日新聞<違反と野放し:食品公害を考える>より)
*5 ドイツは第一次大戦までヨーロッパ唯一のカリ生産国であったので,大戦勃発とともにアメリカもカリを輸入することができなくなった。そこで連邦政府はサールズ湖がカリ塩も産出することに目を付け,ここを「カリ保留地」に指定した。しかしそこからとったカリ塩を肥料にしたところ,大量に含まれていたホウ砂が,トウモロコシなどの作物に大きな被害を与え,これを供給した農業協同組合は,被害を被った農家に莫大な損害補償をするはめになった。
*6 海棲の動物や海藻のホウ素濃度は海水濃度を反映して陸棲のものより高いが,どのような役割をしているのか明らかになっていない。
(財)北農会
会長 関矢 信一郎
昭和後期,増え続けていた施肥量も60年(1985)をピークに減少し始める。それ以前が標準を大きく上まわっていたので,適正化の傾向と見ることもできよう。

この減肥には環境問題への関心の高まり,消費者の食料に対する高品質・安全・安心の要求などが要因としてあげられる。
環境への負荷については,昭和50年代迄は農業は被害者として,重金属による河川の汚染や生活排水による用水の富化などの対策を求めていた。この頃,ヨーロッパでは多肥や家畜ふん尿による地下水汚染-NO3-N濃度の上昇が問題となっていた。これに触発される形で我国でも集約栽培地帯での井戸水の汚染が明らかになった。更に多頭飼育の畜産廃棄物が加わった。
ここでは肥料は悪者となり,更に良食味と蛋白含量が話題となって減肥に拍車がかかる様になった。水稲では良食味のササニシキやコシヒカリが倒伏しやすい所から少肥栽培が行なわれていた。
北海道でも良食味品種が開発され,その特性を生かすため減肥がすすめられた。一方,昭和60年から甜菜の糖分取引きが開始された。多肥栽培では糖分含量が低下することが明らかになっていたので,窒素施用量は減少した。加工用馬鈴薯でも同じ傾向があり,減肥される様になった。更に麺用小麦でも低蛋白質が求められるなど各作目において窒素の減肥が認められた。
北海道における肥料の使用量の推移を図2に示した。平成に入ってからの10年間で全量で15%減であるが,成分では窒素5%,燐酸15%,加里7%に過ぎない。全量は単肥から化成ヘ,更に高度化成へと移行したものと考えられる。成分は,甜菜,馬鈴薯の減に対し,集約的な野菜や花卉の作付面積の拡大に伴う増があった。

農水省では,環境への負荷を軽減する技術体系の開発を目指し昭和62年から「環境保全型農業」の連絡試験を各県と共に開始した。北海道もこれに加わってクリーン農業の開発研究を平成3年から開始し,平成11年から道の重要施策と位置付けている。
有機農業や特別栽培も活発化し,平成2年,北海道有機農業研究協議会が発足している。
北海道農政部は平成元年(1989),7年,14年と施肥標準を改訂している(表1)。
平成元年の改訂は昭和58年版を受けてのもので,前年策定された道の長期計画に合せ,目標収量の改正,野菜・花卉の大幅拡大などが主なものである。標準と大きく乖離した施肥実態については特に触れず,成分取引となった甜菜・馬鈴薯についてのみ減肥している(表1)。

平成7年版は,開発していたクリーン農業の体系を受けてのものである。この体系では堆肥施用による土づくりが前提となり,更に多投が見込まれることから,堆肥の成分の取扱いが大幅に変更された。すなわち,従来作物別に堆肥の施用量を示し,この施用を前提に施肥量を決めていたものを,全て無堆肥を前提に施肥量を決め,堆肥等を施用する場合はその成分量を評価して施肥量から差引くこととした。これにより施用の全量が施肥量となる。また,地力維持に必要な堆肥の量を一括表にして示している。
この改正でも標準量は変らないが,堆肥が内数となったのでその分は減肥となる。
平成14年の改正は土壌診断の結果を具体的に配慮したものになっている。特に水稲では良質米を蛋白含量7%以下(極良質米では6.5%以下)を目標に培養法によって土壌の窒素肥沃度を評価して,施肥量を策定しようとするものである。従ってマニュアルは土壌診断基準・施肥対応を含めたA4・240頁の大部となった。
この3回の改訂においても施肥標準の数値は殆んど変っていない(表1)。しかし,堆肥の成分を内数にしたこと,土壌診断を具体的に取り入れたことにより,化学肥料は減肥となった。また,堆肥施用量にも実質上限が想定されたことから環境保全への配慮がなされ,低蛋白農産物・良食味食料の生産が期待されることになった。
北海道農政部は,平成4年(1992)クリーン農業の参考として施肥実態調査を行なっている。これは農改センターを通じてのアンケートによるもので全道2,000戸を対象とし,同時に土壌診断も行なっている。表2は代表的な作目について施肥成分の平均値及びその適否判定結果の一部を示したものである。

水稲のN-P2O5-K2O(kg/10a)は8.8-11.7-8.4で,米生産費調査の9.9-9.03-8.19に比べ窒素・燐酸でやや少な目である。表1と窒素で比較すると,水稲,秋まき小麦,馬鈴薯で±,甜菜,大豆で+となっている。表1の施肥標準は主産地のもので道平均よりかなり高いと想定される。従って表の4作目共過剰と判断される。
適否の診断は,その地帯・土壌の施肥標準に土壌診断の評価を配慮して決定したものである。表では作目の事例数に対する割合で示しである。窒素の「適」は50~85% ,豆類に多く水稲や牧草類,更に野菜で少ない。「多」の多いのは水稲,秋まき小麦,甜菜,かぼちゃなどで,牧草・デントコーン,野菜の一部で「少」が「多」より多い。燐酸はほとんどの作目で適~多が80%をこえている。加里もほぼ同じで全体に多い傾向にある。これはクリーン農業がスタートする直前の調査で十数年を経た現況が気になる所である。
水稲の生産費調査から施肥量の推移を図3に示した。ほぼ20年で窒素が66%,燐酸が76%,加里も70%と激減している。これは生産性の低い水田が休耕しているのも一因と考えられるが,側条施肥面積の拡大,低蛋白米生産志向も原因と考えられる。

北海道農政部は平成3年(1991)「クリーン農業」の技術開発を道立農業試験場の重点課題とした。前述した様にこれは当時全国で展開していた環境保全型農業に当るもので,当初は「化学肥料・合成農薬の3割減,3つの品質の向上」をスローガンにしていた。化学肥料の削減は肥料標準を大幅に超えている施肥量を是正するものと説明されていた。
平成12年迄に農業試験場は168の技術を開発し,体系化した。この技術を共通して活用する生産集団を道は認定し,その生産物を”YES,clean”としてブランド化した。現在では道農政の重要施策となっている。現在279団体約9,500戸で48品目が登録されている。
この技術体系は各作目,作型毎に策定され,多岐にわたっている。その中で減化学肥料技術としては
○パソコンによる土壌診断・施肥設計システム
○施肥位置,施肥法の改良(作条・側条施肥,緩効性肥料の利用,スポット施肥など)
○土壌窒素及び有機物中の肥料成分の評価
○土壌微生物の実態と標準値の提示
○水稲・野菜の内部成分の指標策定と品質向上のための栽培法
具体的には各作日・作型毎に土壌診断結果により施肥量が決められる。
窒素は施用有機物との関連で決定される。主な作目について表3に示した。

これによれば,先ず慣行(施肥標準ではない)施用量を決め,土壌分析による3~5水準の肥沃度により全施用量を求める。堆肥の施用量(1~3t/10a)中の窒素成分を算出し,全施用量から差し引いて化学肥料施用量を定める。表では窒素肥沃度中庸の数値である(水稲の数値幅は土壌間差による)。ここで化学肥料の施用量を総施用量の30%減とすることが望まれている。
堆肥の上限が3t/10a(野菜では例外もある)とされているのは,堆肥等の多投も環境負荷になることを踏まえてのことである。
この様な環境容量については,北海道の土づくり運動の中でも取り上げられている。
北海道では緩効性肥料は作付初期の肥効が低いとされていたが,近年寒地対応のものも開発されてクリーン農業の中でも使用が認められている。
また,米の食味向上に珪酸の効果が認められ,施用量が増加している。
農水省の生産費調査によると,平成12~16年の肥料費は表4に示した様に大豆を除いた作目において,対昭和60年比で80~70%となっている。これは図2に示されている様に施肥量の減少と肥料単価の低下によるものである。

一方,生産費に占める割合は甜菜を除き殆んど変っていない。生産費自体も低下しているためであろうが,生産者の努力がうかがわれる。
以上,北海道の施肥の変遷を辿ってみた。
開拓以来,北海道の農業は開拓使-道庁の強力な指導のもとに展開し,施肥技術もこれに外ならない。筆者の用いた資料も官製のものである。しかし,全ての時期を通じてのものは入手しがたく,従って全体として断片的なものになった。
ここでは出来るだけ生産者レベルの施肥を中心にし,それと官製の「施肥標準」を対比しようとしたが,実態部分の資料が少なく,半端なものになった。
大平洋戦争前は,主として原料供給基地であったが,戦後は食糧基地とされた。戦前の技術開発は北大農学部と農事試験場の合作で,府県との交流は限られていた。甜菜,馬鈴薯,亜麻など府県では殆んど作られていなかった作目が主だったせいもあろう。
戦後は,農業試験場の組織が変り,農水省との人事交流や学会への参加も盛んになった。取り組む作目も水稲はじめ食料作物になると,府県の技術が流入する様になった。野菜が導入されると農業者自身が先進地に研修に出かけた。
従って,低温や大規模にかかわる技術以外は府県のものと大差なくなった。施肥についても同様である。筆者も5,6編においては,北海道らしさを出すのに苦労した。
長い間お付合いただき,有難うございました。
エコサイクル総合研究所
中野緑化工技術研究所
中野 裕司
のり面緑化工は,戦後に開発された技術です。それ以前の土木工事は,人力で切土・盛土を行い造成しておりました。このため,一度に出現するのり面の面積は極わずかなものでした。しかし戦後,重機と称されるブルドーザなどの土木機械が我が国に入って来たことにより様相が一変しました。短時間で,大規模な造成が行われるようになったからです。当然,大きな面積を持つのり面が短期間で出現することになります。このような事態となって初めて機械施工によるのり面保護工の必要性が生じ,そのーつとしてのり面緑化工が開発されたわけです。
余談になりますが,我が国が先の大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れた原因は様々ですが,そのーつとして大型土木機械があげられております。
我が国の飛行場の滑走路は,爆撃により穴ぼこだらけになった場合,ツルハシと畚(モッコ)による人海戦術で穴埋めをし,復旧しておりました。これに対するアメリカを中心とする連合国軍は,土木機械を用いて短期間で復旧してしまいます。南方の島嶼づたいに日本列島ヘ迫ってきてたわけですが,占領・上陸した島では重機を用いて大型爆撃機を飛ばすことのできる滑走路を短期間で造りあげてしまいます。このようにして造られた滑走路からB29が飛び立ち全国各地が絨毯爆撃されてしまったわけです。
南方前線で滑走路づくりに威力を発揮した重機が,戦後,我が国に導入され国土復興・経済成長の基礎を作り上げてきたわけですから歴史の流れというものは不思議なものと言えます。また,そのような流れの中でのり面保護・のり面緑化という新たな分野ができたということは,今振り返ってみると感慨深いものがあります。
大面積のり面の出現により,侵食防止を迅速に行うことが要求され,それに対応する手法として機械化施工が開発されました。これにより,導入植物もまた機械化施工に適するものが求められることになりました。これにより,従来の治山緑化工において用いられた根株や苗木を植栽する方法から,牧草種子を播種する方法へと変化することとなりました。
それ以降,時代の変化による社会のニーズ・要請にあわせ施工機械,使用材料も変遷し,それに伴い緑化植物も変化してきました。
その変遷を,表1に示します。

のり面緑化工の基礎技術である治山・砂防緑化では,緑化植物は施工地に近い原野からカヤ株などを採取し,それを植え付けることにより導入し,はげ山の車柔化を行ってきました。しかしながら,機械化施工による牧草を播種し導入する技術が開発された後は,大量に牧草を播種し早急に緑化・被覆を図り侵食を防止することが主流になりました。
米国などでは,飛砂防止や芝生として活用するために,その目的に合致する性質を持つ牧草が選抜育種されており,そのなかよりのり面緑化に適したものが選定され緑化植物として使用されることとなったわけです。
のり面の侵食防止を行うための植物は,発芽が斉一で初期生長が速く,裸地斜面を早急に被覆し侵食防止を図ることができるというという性質が求められます。また,切土箇所は硬質な地山,盛土箇所は軟質な地山が形成されますが,いずれも地山芯土がむき出しにされたものですから,鉱物質の粘土・シルト・砂・礫のみによって構成されるために,有機物を欠き養分を含まない貧養な状態となります。また土木・建築工事は,農業のように最適な播種・植え付け時期を選ぶことができません。工事全体の工程に合わせ施工時期が決定されてしまうからです。
このような箇所・条件の下で播種し生育させようとするわけですから,貧養な土壌にも耐えて生育し,かつ,不適期に施工した場合でも乾燥などに耐え生育するという強健な性質を持つことが必要となります。
このような条件に合致するものとして,暖地(夏草)型としてウイーピングラブグラス(シナダレスズメガヤ),バミューダグラス(ギョウギシバ),寒地(冬草)型としてトールフェスク(オニウシノケグサ),クリーピングレッドフェスク(ハイウシノケグサ),オーチャードグラス(カモガヤ),ホワイトクローバー(シロツメクサ)などが選択されました。
急傾斜の山腹やのり面に対し,カヤ株や苗木などの植物材料を導入するためには,施工地まで根の付いた植物材料を人肩で運搬し,植穴を掘削し植え付けるという人力による施工が必須でした。播種による方法によって機械化施工や種子付シート(植生シート)などの二次製品化が可能となり,省力化・迅速施工を行うことができるようになりました。
のり面緑化工は,このような時代の趨勢のなかで,大面積のり面に対する侵食防止工として,機械化施工や二次製品を用いることにより牧草種子を大面積に大量に播種するという目的に沿って実用化が進められたわけです。
半世紀ほど前に種子吹付工が開発され,のり面緑化に牧草の種子が用いられたのを皮切りに,現在に至るまで機械化施工により大量の牧草が撒き続けられ,のり面の緑化,国土の保全に役立ってきました。
時代が経るにつれ次第にのり面緑化工法が高度化し,耐侵食性に優れたのり面緑化工が開発されるにしたがい,また,社会が豊になり,景観修復や自然回復など社会の要請の変化,高度化により,緑化植物は,牧草主体から,ヨモギ,メドハギなどの在来草本類を使用するようになり,やがて木本ハギ類の導入を行うこととなってゆきました。
元来,在来草本類を導入するという要求は,夏場に緑ののり面を造成したいという要求によるものでした。のり面緑化は寒地型牧草を用いることが多いため,春・秋の冷涼な時期は緑ののり面となるのですが,夏・冬の厳しい乾燥の中では休眠し地上部を枯らし黄化することとなります。
我が国の植物の多くは暖地型の生育タイプであるために,夏場に緑の景観を形成します。寒地型の牧草をのり面緑化に用いた場合,夏場,周辺の森林が緑である中,のり面植生が枯れるという状況を呈することとなり,黄色ののり面景観は周辺の風景から浮き上がり劣るものとなってしまいます。また,このことは,たばこのポイ捨てによる火事の原因ともなってしまいます。
このため夏場の景観対策として,夏場に緑の暖地型植物であるヨモギ・メドハギなどの在来草本類の導入が行われるようになり,それが高じて,夏場の緑量を増大することが求められ,ヤマハギ,中国産コマツナギ,イタチハギなどの木本ハギ類の導入が推進されました。
このような切り替えは,昭和59年の「道路土工-のり面工・斜面安定指針-」の改訂により一層顕著になり,それ以降日本全国木本ハギ類により緑化・被覆されることとなりました。

のり面緑化の究極の目的として,我が国に自生する植物を用い自然回復を行おうとする研究・開発は多くの研究者・技術者により続けられてきたのですが,世の中が豊になり,景観的な面への配慮を行うゆとりが生じたことにより,牧草と在来草本類・木本ハギ類を混播する方向へと一挙に進んでゆきました。内発的な動きよりも,社会のニーズの変化により大きく変化しました。
播種による緑化が,牧草のみの播種から在来草本類,木本ハギ類の混播ヘ推移する陰には,導入植物の種類の推移にともない,播種量の減少があったことも見逃すことのできない技術的な要因の一つです。
単に侵食防止を行うだけであるならば,急速に緑化・被覆を図ることで目的を達することができるわけですから,発芽・生長の速い牧草を大量に播種することで足ります。しかし,ヨモギ・メドハギなどの在来草本類は,牧草に比較するならば発芽・生長が遅いため,牧草の播種量を減じなくては混生させることができません。さらに初期生長の遅い木本ハギ類を導入するに至っては,さらなる牧草の播種量の減少が必要となりました。
牧草により急速緑化を行う場合,播種量は㎡あたり10,000粒,すなわち1cm×1cmの升目に1粒種子が播種されるという高密度の状態とすることが基本です。
牧草の播種が実施された当初の標準的な方法は,地山に覆土無しで直接播種する種子散布工という方法であったために,降雨による流亡ロスなどを加え13,000~15,000粒/㎡(20g/㎡程度)という大量の種子を播くことが一般的でした。これにより,適期施工の場合,播種後数週間でのり面全面を鮮やかな緑で覆うことが可能となりました。
このため,短期間に緑で覆う急速緑化がのり面緑化である,というイメージが固定化され,刷り込みとなってしまいました。
この牧草を用いたのり面緑化の成功による刷り込みは,その後の景観修復対策として在来草本類,木本ハギ類を導入するという社会の要請の変化に対する対応を遅らせる原因となったことは皮肉としか言いようがありません。牧草の播種量を減ずることによりのり面の緑化・被覆速度が遅くなることになります。このことは,侵食防止効果が発揮されるために時間を要するということになるのですが,植物による被覆の遅れによりのり面が侵食されてしまうのではないかという懸念を払拭することがなかなかできなかったからです。元来,のり面緑化の目的は侵食防止対策にあったわけですから,当然の懸念といえましょう。
ヨモギ,メドハギなどの在来草本類と牧草を混在させるためには,発芽・初期生長の速い牧草の播種量を大幅に減じ,発芽・生長が遅い在来草本類の被圧を防ぐことが必要となります。このことは,のり面が緑化・被覆されるまでの時間が長期間必要となるために,その間侵食を受ける危険性が増し,また,異常早魃など乾燥害に巡り会う機会を増すことも意味することになるからです。
このような危険性を回避しつつ,播種量を減ずるという,相反する要求の元で播種量を次第に減じていった訳ですが,牧草の播種量を1/4の2500粒/㎡程度まで減ずるために10年程度の歳月を要しました。粒数(密度)では1/4と大きく減じてしまうのですが,播種間隔は2倍となるだけでそれほど大きな差が生じる訳ではないのですが,それでも10年の歳月を要してしまいました。様子を見ながら播種量を僅かずつ減じて行ったわけです。1シーズンの中で春と秋にしか播種できませんから僅かな変化を加えるだけでもこのような長い年月を要してしまいました。

これにより,在来草本類,木本ハギ類を播種により確実に導入することができるようになり,夏場の景観形成を行うことが可能となりました。
在来草本類,木本ハギ類を確実に定着させるために播種量を減ずることは,緑化・被覆に時間を要することとなり緑化・被覆に至るまで半年~1年という時間が必要となります。このため,牧草による急速緑化に対し,遅速緑化という表現が用いられるようになりました。
播種量を1/4以下に減じるまでに10年以上の年月を要しましたが,これは,結果を確認しながら段階的に播種量を減じていったという側面と,もう一つの側面として,のり面緑化に対する急速緑化という刷り込まれたイメージを払拭するのに要した時間ということでもあるのです。一端形成されたイメージの元,施工がなされ検査されるわけですから,そのようなルールの変更には長期間を要することになってしまうわけです。
夏場の緑量を求め,全国にハギ山が形成されることとなるわけですが,筆者は,ハギ山は林地の収奪を繰り返しやせ衰えた立地に出現するポイ山と称される状態を造るものであり,木本ハギ類をのり面緑化に用いて単一植生を造ることは,偏向遷移ののり面を作り出すために自然回復が遅れるとし,木本ハギ類の導入に対しては批判的な立場を貫いて参りました。昭和59年の土工指針の改定の後,日本中ののり面をハギ山とした後,やっとその問題点の理解が進み,ハギ類の導入に対し控える傾向が生まれました。
現在は,木本ハギ類の使用を控えつつ少量播種を行い,時間をかけ緑化して行く方法を,超遅速緑化と称し,牧草の大量播種による急速緑化による侵食防止に対し,自然回復のための緑化手法として位置づけられるに至っております。
1)中野裕司:日本における法面緑化工法開発の流れとエコサイクル緑化工法,
韓国環境復元緑化技術学会, 2004
2)新田伸三・小橋澄治:全訂新版 土木工事の法面保護工,
貸間出版会,1976