§平成4年度農業観測の概要について
農林水産省大臣官房調査課
河本 幸子
§肥料の来た道,帰る道
9.戦争と肥料の奇妙な関係
京都大学
名誉教授 高橋 英一
農林水産省大臣官房調査課
河本 幸子
農林水産省は昭和27年から農産物及び農業生産資材等にかかわる需給,価格等の動向の分析及び見通し等を内容とする農業観測を作成,公表しています。
「平成4年度農業観測」は,農林水産統計観測審議会の審議を経て,6月12日公表されましたので,その概要を紹介します。
なお,農業観測の作成に当たっては,作柄は平年作を前提としており,また,見通しは幅を持った表現としています。説明中に用いられている変動幅は表1のとおりで,いずれも前年度に対するもので,変動の幅が区分をまたがる場合は「わずかないしやや」等の表現を用いています。(表1)

我国経済は,昭和61年末以降,内需主導による長期の景気拡大を続け,2年度の経済成長率は5.5%となりました。しかし,3年度に入ってからは,輸出は強含みですが,個人消費の拡大テンポが減速し住宅建設も減少するなど長期にわたった景気拡大が減速し,調整局面にあります。
また,労働力需給は依然引き締まり基調で推移していますが,有効求人倍率が低下傾向にあり,完全失業率も下げ止まるなど緩和のきざしがみられます。
4年度は,前半は減速傾向が続くとみられますが,後半は緩やかな回復が見込まれます。なお,政府経済見通し(平成4年1月24日閣議決定)によると4年度の実質経済成長率は,3.5%程度と見込まれています。
食料消費の動向を経済企画庁「国民経済計算」でみると3年度の実質飲食費支出は,台風等の気象被害による野菜,果実の出回り減及び価格上昇,外食等の伸び悩み等から1.7%程度の増加にとどまったとみられます。
なお,実質民間最終消費支出と実質飲食費支出との間には強い相関関係がみられ,2年秋頃からの実質民間最終消費支出の伸びの鈍化は最近の実質飲食品支出の伸びの鈍化の背景とみられます。
4年度の実質飲食費支出は,実質民間最終消費支出が引き続き増加すると見込まれていること,食料品消費者価格がわずかな上昇にとどまるとみられること等から,わずかに増加すると見込まれます。
農業就業人口は,引き続き減少傾向にありますが,3年度は景気が減速し,労働力需給も緩和の兆しがみられること等から2年の減少率を下回る3.1%減と減少率が鈍化し,380万人となりました。
4年度は,引き続き減少するとみられますが,労働力需給に緩和のきざしがみられること等から減少率は鈍化し,わずかな減少にとどまるものと見込まれます。
3年度の農業資材の農村価格(農家購入価格をいう。以下同じ。)についてみると,畜産用動物は肉用子豚が上昇したものの,牛肉の自由化の影響から肉用牛子牛が下落したため5.0%下回り,飼料も配合飼料価格が円高等により引き下げられたことから1.6%下回りました。一方,肥料,農薬,農機具等は価格改定の影響等により上昇したため,農業資材総合では,1.1%の上昇となりました。(表2)

4年度の農業資材の農村価格は,光熱動力,畜産用動物はわずかないしやや下回りますが,肥料,農薬等はわずかに上回ることから,農業資材総合では,ほぼ前年度並みと見込まれます。
3年度の農業生産は,耕種が低温,台風等の気象被害を受け,米,果実,野菜等が減少したことから7%程度減少したとみられます。畜産については,豚,ブロイラーが減少しましたが,肉用牛,鶏卵,生乳等が増加したことから,0.7%程度増加したとみられます。この結果,農業生産総合では5%程度減少したとみられます。
4年度は,作柄を平年並みとすれば,米は転作等目標面積の軽減による作付面積の増加,果実はりんご等の増加,野菜は,夏秋野菜及び秋冬野菜を中心とした増加によりそれぞれ増加すること等から,耕種はかなりの程度増加すると見込まれます。
また,豚が子豚生産頭数の減少,ブロイラーが食鳥処理場の人手不足等から,それぞれ減少しますが,肉用牛が子牛生産頭数の増加,鶏卵がひなえ付け羽数の増加からそれぞれ増加すること等から,畜産総合ではわずかに増加すると見込まれます。この結果,農業生産総合では,かなりの程度増加すると見込まれます。(図1)

3年度の農産物の輸入数量は,円高等の影響により輸入価格が下落したこと等から,6.0%増と過去3か年と比べ伸び率が高まりました。
4年度の農産物の輸入数量は,円相場の動向等にもよりますが,やや増加すると見込まれます。
主な農産物についてみますと,小麦がわずかないしやや増加,とうもろこしがほぼ前年度並み,大豆がやや増加,生鮮オレンジは,寒波の影響を受けたカリフォルニアの生産回復により大幅に増加すると見込まれます。肉類は,牛肉,豚肉がかなりの増加,家きん肉がやや増加すると見込まれます。
3年度の農産物生産者価格は,低温,台風等の気象被害による入荷減から野菜が5.0%,果実が22.8%上回りました。畜産物は,肉豚が9.3%,ブロイラーが3.3%それぞれ上回りましたが,鶏卵が7.9%,肉用牛が5.4%それぞれ下回ったこと等から,2.0%下回りました。この結果,農産物総合では3.8%上回りました。
4年度は,野菜が生産の回復からやや下回ると見込まれます。果実については,みかんが収穫量の減少等からかなりの程度上回りますが,りんごが前年の減産から大幅に回復することからかなり大きく下回るとみられ,果実総合では,わずかないしやや下回ると見込まれます。
畜産物については,生乳がわずかに上回りますが,鶏卵が生産量の増加からかなりないし大幅に下回り,肉用牛が牛肉の輸入量の増加等からわずかに下回るとみられ,総合では,わずかに下回ると見込まれます。この結果,農産物総合ではわずかに下回ると見込まれます。
3年度の農業生産額は,農業生産が台風等の気象被害により5%程度減少し,農産物生産者価格が4%程度上昇したとみられることから,1%程度減の12.9兆円程度となったとみられます。
4年度の農業生産額は,平年作を前提とすれば,農業生産がかなりの程度増加し,農産物生産者価格がわずかに下回ると見込まれることからやや増加すると見込まれます。
化学肥料の国内需要量は,作付延べ面積が減少していること,稲及び果樹等で単位面積当たりの施肥量が減少傾向にあること等から,減少傾向で推移しています。2肥料年度(当年7月~翌年6月)は,窒素,りん酸,加里ともに減少したため5.1%減となり,3肥料年度の7月~3月間においても3.5%の減少となっています。
なお,有機質肥料の農家購入量は,肥料全体に占めるウェイトは小さいものの,農家において有機質肥料の生産が減少していることから増加傾向で推移しています。2肥料年度の有機質肥料の購入量は,魚粉が飼料との競合により減少したため前年度より減少しましたが,過去10年間で2.2倍(2肥料年度供給量,478万トン)となりました。(図2)

化学肥料の全農購入価格は,61肥料年度以降円高や原材料価格の低下等を反映して,引き下げられてきました。
2肥料年度は,円安等による原材料価格の上昇に加えて,物流経費等の上昇により2年7月から3.86%の引き上げとなりました。
その後,3年1月には,窒素質肥料については,湾岸危機の影響により主原料であるナフサ,LPG等の価格が高騰したこと等による引上げ,りん酸質肥料及び加里質肥料については,円高等により加里塩,りん鉱石の輸入価格が下落したこと等による引下げを内容とする期中改定が行われ平均0.14%の引き上げとなりました。3肥料年度は,塩化加里,りん鉱石等の国際市況の上昇,海上運賃の上昇等による物流経費の上昇等から平均3.30%引き上げられました。
このような化学肥料の価格動向により,3年度の農村価格は3.4%の上昇となりました。
以上平成4年度の農業観測の概要を紹介しました。農業観測の冊子では,個別農産物ごとにも生産,価格の見通しに関する詳しい分析を,農業生産資材についても,肥料だけでなく農機具,農薬等個別資材ごとに需要と価格の見通しに関する詳しい分析を行っています。
また,昨年からは本編をコンパクトにまとめたカラー印刷の概要版も公表していますので是非御一読頂き参考にしていただければ幸いです。
京都大学
名誉教授 高橋 英一
今世紀も残りわずかになったが,世紀末になると来るべき世紀に対する夢とともにいろいろな不安が語られるものである。
18世紀の末にはかのマルサスが有名な人口論を著わし(初版は1798年),幾何級数的増加を示す人口と算術級数的にしか増加しない農業生産とのギャップを危惧した。幸いこれは杷憂に終ったが,それは一つには19世紀にアメリカがヨーロッパから大量の移民を受け入れ,それによって進められた西部開拓がヨーロッパへの食糧供給に貢献したことと,いま一つはすでに述べたように地下から肥料になる鉱物資源がもたらされるという予期せぬことがおこったためであった。
しかし19世紀の末にはヨーロッパの人口は4億を越え,18世紀末の人口1億9000万の2倍以上に増加し,再び来たるべき世紀における食糧供給に危惧がもたれるようになった。そのような折,1898年9月にブリストルで開かれたイギリス学術協会で,会長のウィリアム・クルックスはつぎのような主旨の演説を行ない大きな感銘を与えた。
「世界のコムギ栽培地の地力は消耗しつつあり,耕地面積の拡大にも限度があるのでこのままでは近い将来コムギは不足するだろう。これを回避するためには窒素肥料を増施してコムギの収量を上げる必要があるが,現在採掘しているチリ硝石は有限であり掘りつくされる日も遠くはないだろう。このようなときわれわれがもっとも注目すべきは無限にある空中の遊離窒素である。この窒素を植物が吸収できる形態にかえて肥料にすることは,われわれ科学者の双肩にかかる重大かつ緊急の課題である」
この演説に触発されて,ヨーロッパでは空中窒素の工業的固定の研究が急速に進展した。
まず1905年にはカルシウムカーバイドに窒素ガスを高温で通し,カルシウムシアナミドという窒素化合物に変化させた(即ち窒素を固定した)石灰窒素がドイツで製造された。
ついで1907年には電弧法による硝酸肥料がノルウエーでつくられた。これは空気中の窒素ガスが放電によって酸素と結合して硝酸になる自然現象(稲妻やオーロラなど)にヒントを得たもので,高電圧アークによって酸素と窒素を直接化合させ,生成した二酸化窒素を水に吸収させて硝酸にするものである。そしてさらにこれを濃縮して,粉砕した石灰岩と反応させ,硝酸石灰として販売された。いわゆる「ノルウエー硝石」であるが,これは多量の電力を消費するのでその後経済的になりたちにくくなり,すたれていった。
そしてこれら2つにつぐ第3の空中窒素固定法として登場したのが,空気から分離した窒素ガスに水素ガスを直接化合させる「合成アンモニア法」であった。
1909年ドイツのハーバーは実験室的規模のアンモニア合成に成功し,ついで有力な化学会社であったBASFのボツシュとミタッシュによってその工業化が推進され,1913年9月にはライン河畔のルードウィヒスハーフェン郊外のオパウに,年産7500トンの世界最初のアンモニア合成工場が完成した。第1次世界大戦のはじまる丁度1年前で
あった。
アンモニア合成は高温高圧の下に,触媒反応という新しい方法を用いて行なわれるものであり,またこのような反応を行なう装置をつくるために高品質鋼が必要であった。これらを可能にしたのは,当時のヨーロッパで最高の水準にあったドイツの科学技術であった。
前にも述べたように火薬をつくるには硝酸が必要であるが,もしも自由にアンモニアを合成することが可能ならば,それを硝酸に酸化すれば,硝石の資源の有無にも早束縛されることはない。この点においてもアンモニア合成の成功の意義は大きかった。それはドイツに開戦を決意させた原因の一つになったともいわれ,また戦争を長びかせるのに貢献したのであった。
当時ドイツは窒素肥料の生産量はヨーロッパでもっとも多かったが,その一方で大量のチリ硝石を輸入していた。戦争になれば肥料のほかに火薬用硝石の消費量も莫大なものになるので,強力なイギリス海軍の海上封鎖によってチリ硝石の輸入がとだえれば,火薬の不足と肥料不足による食糧難のために,戦争は短期間でドイツの敗戦に終るだろうと予想されていた。
ところが開戦後しばらくして,ドイツはアンモニアの合成に成功したとの噂がひろがり,連合国もこの研究に力を入れるようになった。その結果1917年にはフランスに,1920年イタリア,1923年イギリス,1929年アメリカとつぎつぎにアンモニア合成工場が誕生するにいたった。日本も1931年に東工試法が開発され,1932年昭和肥料(のちの昭和電工)によって工業化された。
このように空中窒素固定工業は短期間に長足の進歩をとげ,その結果肥料窒素の消費量は第1次大戦中に2倍,その後第2次大戦のはじまるまでの20年間にさらにその3倍に増加した。(第6表参照)

ハーバー,ボツシュらによる空中窒素の工業的固定の成功は,2つの点で大きな意義があった。第1はこれによって作物生産にもっとも重要な窒素に関しては資源の局在性,有限性の束縛から脱することができたことである。この方法は各国が肥料および工業用アンモニアの自給体制を取ることを可能にし,クルックスの提起した課題を解決したのであった。
第2は20世紀を特徴づける化学工業の時代の推進者になったことである。硫安工業に先行した過リン酸石灰工業は技術的には単純で,小資本で経営が可能であった。これに対して高圧合成技術をはじめて工業的に利用したハーバー・ボツシュ法は著しく技術および資本集約的である。
この方法をとり入れた硫安工業は,電力業,石炭業とコンビナートを形成して巨大化し,また硫安生産に附随した硫酸,硝酸,硝酸アンモニアなどの生産を通じて軍需ともむすびつくようになった。一方硫安生産の基盤を支える電力業や石炭業もあらゆる化学工業と深いつながりがあることから,硫安工業は単に肥料工業にとどまらず,重化学工業の中核としてその推進に大きな役割を演ずることになったのである。
フリッツ・ハーバーは1868年ドイツのブレスラウに生れた。ベルリン工科大学を卒業後,カールスルーエ大学で研究をはじめ,ここでアンモニア合成法の基礎をつくった。1911年カイザーウイルヘルム研究所に招かれ,1933年まで所長を努めた。
1914年第1次大戦が勃発するや,彼は政府に協力して,火薬原料の硝酸供給のために合成アンモニア増産の努力をするとともに,化学戦委員会の長を勤め,1915年4月22日のイープルにおける毒ガス攻撃に参画した。これは毒ガスの使用禁止をきめたハーグ国際協定違反であり,ハーバ一夫人は化学戦をやめるように夫を説得したが,きき入れられなかったため自殺するにいたった。
戦後連合国作成の戦争犯罪人名簿の中にはハーバーの名前もあり,1918年ノーベル化学賞を受けたときには連合国側の科学者から不満の声があがったという。1924年ハーバーは世界周遊の途中来日し2ヶ月を過ごし,大きな関心を日本に抱いた。その結果日独相互の文化交流を図るために,1930年ベルリンと東京に日本研究所を設立した。
1932年ナチスの反ユダヤ政策のため,ユダヤ系ドイツ人であったハーバーは職を辞し,ケンブリッジ大学の招きに応じてイギリスに渡った。そしてその2年後の1934年1月イタリアへ向う途中,スイスのバーゼルで心臓発作のために亡くなった。
カール・ボツシュは1874年ケルンに生れた。有機化学の研究で1898年学位を取得後BASFに入り,ハーバーの実験室規模のアンモニア合成を工業的規模にすることに成功した。1931年高圧化学の利用に関する業績によりノーベル化学賞をうけた。1919年BASFの後身のIG(イーゲー)の社長となり,1935年理事長,1940年ハイデルベルグで没した。