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第552号 2004(H16).05発行

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北前船交易と越中(富山県)の魚肥

富山県郷土史会
常任理事 前田 英雄

1.北国海運から北前船交易(西廻り航路)

(1)北国海運

 近世における海運は北前船一遍倒のように思われているが,そこに至るまでの歴史があった。日本海では越前国(福井県)から奥羽地方に至る「北国海運コース」が室町時代から開けた。この海運で用いられた船が北国船(図1)とハガセ船(図2)であった。北国船は北国地方で発達した船型であったのでその名があり,ハガセ船は船尾の型が鳥の羽交を思わせるところから名付けられた。

 幕藩体制が確立していくなかで,幕府や諸藩の年貢米を現銀化するため大量に輸送されるようになった。日本海側の諸藩は上方に本格的に廻送した。加賀藩の年貢米は北国海運コースで越前敦賀に船で送り,敦賀から馬で琵琶湖北岸の塩津に運び,再び湖上を船で大津に運び,さらに馬の背に乗せて京都・大坂に輸送した。琵琶湖を利用した大津廻米は,一部馬による陸送や積み替えで米俵が痛み,運賃は100石に対して25石という高額なものについたので,大坂に海運で直接回送する航路の開拓が求められた。

(2)北前船交易(西廻り航路)の開拓

 島原の乱(寛永14年=1637)が起り加賀藩の出兵は金沢と大坂の2ヵ所から船運を利用して派遣された。2つの軍団が赤間関(下関)で交差したことからヒントを得て,加賀藩3代藩主前田利常は寛永15年(1638)に,試みに年貢米100石を積み直接大坂に廻送させることに成功した。これが「西廻り航路」の嚆矢で,寛永12年(1672)に河村瑞賢がこの航路に改良を加えてから盛んになり,のちには秋田以北から蝦夷地にまで及んだ。これにより北国米の大部分は大坂の蔵宿に集中することになった。

 北前船とは蝦夷地(北海道)を含む日本海沿岸諸港と瀬戸内海諸港や大坂を結んだ廻船である。この航路に就航するようになった船が瀬戸内海で発達した「べンザイ船」であった。(弁財船・弁才船と書かれることもあるがこれは当字である。)これが後世北前船と呼ばれることになった。ベンザイ船が主力となるのは18世紀頃からで,中世の漕帆兼用船から「帆走専用船」に脱皮し,漕櫓用の水主を不用にし,北国船やハガセ船の60%の乗組員で運航できるようになった。また帆船にとって重要な帆はむしろ帆から強度が高く幅広な織帆に変っていき,経済性の高い船として優位に立った。(図3 北前船絵馬)(図4 荷物を満載した北前船明治時代)(図5 北前船のおもな航路と寄港地)

 西廻り航路でベンザイ船を利用した大坂田米は積み替えがないので痛み俵もなく,米100石の運賃も17石と格安になった。

2.越中における自給肥料から金肥(干鰯・鰊肥)ヘ

(1)自給肥料

 江戸時代の肥料の基調は自給肥料であった。元肥としては人糞・厩肥1)・厩土・ツボドロ2)・踏土3)などが使われた。

 加賀藩初期の改作法に基づく大規模な新田開発によって,草刈場が喪失した。その結果土肥・草肥や耕作馬が減少し,自給肥料を生産できなくなった。

 加賀藩の加能越三国の草高の変遷を第1表でみると越中国は寛永11年(1634)から明治3年(1870)までの235年間に74%も増加させているのに対して,加賀国は僅かに10%増,能登国は36%増である。いかに越中国の新田開発による草高の増大が大きかったかわかる。

 村数について砺波郡だけを取り上げると藩政末の慶応3年(1867)にはちょうど700ヵ村を数える村数になっている。慶安元年(1648)には572ヵ村であった。つまりこの間128の新村が生まれたわけで20.4%の増加率を示す。しかも572ヵ村の中に近世を通じて1ヵ村も増減のなかった五箇山70ヵ村を含んでいるから,これを別にすれば平野部において実質的に24%も新開村が誕生増加したことになる。こののち新開が停滞したことにより反収の増加をめざすには多肥栽培によらなければならなかった。

(2)干鰯の使用

 干鰯は日干しにしたり油を絞った鰯のことで,一般に普及するのは商品作物の綿・菜種などの生産が活発化する近世初頭からで,大坂・堺などの畿内で需要が高まった。干鰯ははじめ西国物が多かったが,のちには東国物が多くなった。なかでも房総の比重が高く,明治以降は千葉県は全国一の鰯生産県の地位を長く保った。

 越中(富山県特に砺波郡)においては17世紀中ごろから,新開地に用いられ18世紀に入ると古田にも普及した。背景には加賀藩が農業生産向上のため藩政初期に進めた新田開発計画が行き詰まり,多肥集約農業へと転換を迫られたことによる。越中(富山県)の農業先進地砺波郡では,はじめ射水地方の地元漁村から干鰯を購入していたが,効果の大きい干鰯は供給が追いつかないほどで,亨保年間(1716~36)には砺波郡福光付近の十村組は加賀,能登の浦方ヘ年間1万5千俵4)も買いつけにいった。砺波地方の宮永正運が天明8年(1788)に著わした「私家農業談」には干鰯使用量の7~8割が出羽・佐渡・越後から移入され,氷見・伏木・放生津新湊で取引される量は20万俵と記している。

 天明7年(1787)の加賀藩による越中三郡の干鰯量調査によると
-弐拾壱万六千俵程 砺波郡
-壱万四百俵程 射水郡
-六万八千弐百俵程 新川郡
 右去年干鰯入用高大株相しらべ書上申候 以上。
申(天明八年1788)  二月
御改作御奉行所 田中村角兵衛(外二名略)
で,以上合計は29万4千6百俵程になり,砺波郡の消費量は越中国(加賀藩領)の73.3%も占めている。砺波郡が多いのは新田開発の先進地であり,布・絹(養蚕)・菅などの商品作物の栽培が大であったからであろう。

 干鰯の普及によって各地に屎物商(肥料商人)が生まれたので,藩では他国他領からの買い入れは禁止しなかったが,利潤を貧らず,売り惜しまず百姓に売り渡すことを命じている。しかし屎物仲買人が増加し,高利を取ったことから干鰯屎代が高値になっていった。これには近畿・瀬戸内地方の綿・たばこなどの商業的農業が拡大したことによる需要の増大にも一因があった。このため砺波郡では文化10年(1813)に「干鰯仕法5)」をつくり,生産・輸入量・農民の消費量を調査して適正価格を示し,適当な輸入高を商人に奨め,他国移出を取り締ることで価格安定を図ろうとした。そのために干鰯改役を,伏木・放生津・氷見など5ヵ所に置いた。

 天明期(1781~88)の越中の干鰯の自給率は既に2~3割に低下し,7~8割を越後・佐渡・出羽田から移入していたので,鰊肥移入の基盤ができていた。また天保5年(1824)の干鰯は「砺波郡入用高,大体四拾万俵程無之而者,一昨可成手当ニ相成不申…」と大量の供給が必要なことも述べている。

(3)鰊漁業と鰊肥

①鯨漁業の変遷

 鰊は寒帯性の回遊魚で北国の厳しい冬が過ぎた初春3~5月ころ産卵のため北海道西海岸に来るので「春告魚」ともよばれてきた。

 北海道で鰊を漁獲するようになったのは15世紀の中ごろといわれている。漁業といえるようになるのは松前藩成立の慶長期(1596~1614)以後で,寛文(1661~73)のころようやく盛んになり北国海運の敦賀で鰊・数の子が販売されるようになった。松前地方の漁民は「春百日鰊をとり,一年中の暮らしの代とした」(東遊雑記)。幕末には全道漁獲高20万石の70%を占め,そのほとんどが鰊肥に加工された。鰊肥は享保期(1716~36)に各地で深刻化してきた肥料問題の解決のために注目され,需要地における関東干鰯や九州佐伯産干鰯との価格競争に打ち勝ち,北前船によって本州各地に移出された。

 宝暦10年(1760)ころには畿内へも入った。畿内では化政期(1804~30)には,鰊肥は急増した。明治時代の鰊漁獲高は例年50ないし80万トンでわが国第一の漁種となり,全漁業生産量の4~5割に達した。明治時代は鰊漁業の全盛期で出稼漁夫も6万人余も従事した。富山県からも出稼漁夫が渡道した。しかし大正時代以降になると回遊状態が変化し,漁場は次第に北上した。昭和10年(1935)代には漁獲は10~20万トン程度に減少し,昭和30年(1955)以降は回遊しなくなり鰊漁業の幕を閉じることになった。

②鰊肥料

 「鰊は棄てるところが一つもない。全部金になる」といわれ,食用にするのは,三枚おろした身を乾燥させた”身欠きニシン”と”数の子”だけでほかは魚肥と漁油に加工された。

胴ニシン(端鰊) 身欠きニシンの残りの背肉で肥料としての需要が多く,特に綿花栽培には欠かせぬものとされていた。

笹目 ニシンつぶしの時,取除いた鰓を乾燥したもので肥料として使用

〆粕 ニシンを丸のまま大釜で煮て,締胴で油をとり乾燥したもので一級品の肥料として使用

ニシン油 〆粕製造の副産物で魚油として商品化されたが悪臭と煙で悪評。のち石鹸の原料

鰊白子 雄ニシンの精のうを乾燥した肥料

 鰊生産額の8割は肥料となり2割程食用に廻された。松前ではニシンを「鯡」と書いた。それは「ニシンは魚ではなく米と同じだ(魚に緋ず)」という意味を込めた字であった。

(4)鰊肥使用の変遷 -砺波郡を中心に-

 まず近畿地方における干鰯から鰊肥の移行過程をみよう。室町時代末期(~1573)より綿作が盛んになったので,肥料としての九十九里浜の干鰯が不足になり17世紀から18世紀初頭にかけて,北海道産鰊肥が近畿一円に普及した。瀬戸内の備前(岡山県南東部)備中(岡山県西部)の海岸では干拓による農地が飛躍的に増大した。塩分を含む干拓地の土壌でも綿がよく育ち,そのための肥料として鰊肥(粕)を大量投入され需要が増大した。

 越中国では新川郡・婦負郡・射水郡・砺波郡の四郡のなかで砺波郡は,最も早く治水が進み新田開発も活発となった。新田開発による草高の増加が止むと,既存の田地におけ米の増産が必要となり,金肥の需要が増大し鰊肥の移入が盛んになった。

 安政元年(1854)の肥料に関する触書のなかに「松前物6)相用候ハ享和・文化初年(1801~4)与之事」と述べている。また天保5年(1834)の
書上にその後の推移も含めて,「近年ハ干鰯出来高不仕,鰊・ささめ多入津仕候ニ付」,「当時ハ三・四分通モ取扱申義ニ御座候」とある。

 これらから砺波郡での鰊肥の使用は享和から文化期にかけてはじまり,天保5年(1834)ごろにはかなり移入され,砺波郡の肥料使用量の3・4割まで占めるようになったことがわかる。この年の砺波郡で使用した総肥料40万貫(1,500トン)のうち,干鰯対鰊肥の比率は6対4であった。しかし嘉永2年(1852)には同郡の総量は78万3255貫(2,937.2トン)で干鰯対鰊肥の比率は2対8と逆転している。鰊肥が増大すると肥料商人の買い占め,売り惜しみによって値段が高騰した。砺波郡の農民はこれに対応するため,天保6年(1835)直買を計画し藩の許可を得て「松前鰊肥直買仕法」を取り決めた。

 農民は米1万石を集め松前で直接鰊肥50万貫と交換しようとしたが,天保の飢饉の最中で米が目標量に達せず,買い付けは二万貫に終った。鰊肥の直買は農民の夢でありその後も立案を試みた。鰊肥の需要の増大による移入は増え続いた。明治10年(1877)の越中の鰊肥の使用は砺波郡,新川郡は各100万貫,射水・婦負郡の計は100万貫に達した。また明治12・13年(1879~70)の統計によると,全国の鰊肥の購入高は下記のようであった。

 大阪府 256万円(90%再移出) 純需要10%
 徳島県 301〃
 兵庫県 124〃(90%再移出)
 富山県 122〃(20%程再移出)実質108万円
                純需要

 富山県は藍の特産地徳島県についで、全国屈指の鰊肥移入県であった。明治12年(1879)の北海道開拓使の巡回大書記官の報告によれば,
「石川県管下7)ニ於テ,北海道,肥料ヲ需用スルハ,越中ヲ以テ最トシ越前之ニ次ク,能登ノ如キハ近来僅カニ用フルアルノミ」
と越中が北陸地方きっての最大顧客であることを報告し,同時に北海道が必要とする米が安価であり,両者交換貿易は日本海の要港敦賀よりはるかに有利であり,かつ将来性があると指摘している。

 この鰊肥が北前船の黄金時代を出現させ,富山・石川の諸港に大きな北前船主が生まれた。その船主は鰊肥販売を通じて大地主として成長した。

 富山県誌は明治年間の東岩瀬港の北前船主で肥料商人と農民の関係を次のように述べた。

 「肥料代金を支払われず、耕地を失う農民が多く,魚肥問屋が土地を集積し,2000石,5000石の地主が発生し,農民層の分解が進んだ。」

 農業生産の増大に貢献した魚肥は干鰯から鰊肥に変わり,北前船交易の全盛期が江戸時期から明治中期まで続いた。しかし大正時代以降は鰊漁獲量は急速に減少し,大豆粕や化学肥料の普及に伴い魚肥需要が衰退した。

注釈

1)厩肥 馬に草を食わせて出た肥
2)ツボドロ 流し尻のツボという大きな穴に残菜や草・田の土を入れて腐塾させたもの
3)踏土降雪前に田の土を前庭に運ぶ
4)干鰯1俵は1貫800匁(6.75kg/俵)
5)仕法 財政危機や経済問題に対処,克服するために出された法,運動法
6)松前物 北海道松前産の鰊のこと
7)石川県管下 明治10年~16年まで,越中,加賀,能登,越前は石川県に属した

参考文献

●北前船と大阪 昭58 大阪市立博物館

●北前船と越前若狭 昭60 福井県立博物館

●日本の船 舟の科学館

●海の総合商社北前船 2003 加藤貞仁

●北前船 2002 加藤貞仁

●加賀藩の海運史 平9 高瀬保

●富山県史 近世上・下 富山県

●明治期における北海道魚肥の輸入 1962 富山史壇32号 水島茂

●近世における北海道魚肥の普及と影響 1966 富山史壇33号 水島茂

●加賀藩流通史の研究 昭54 高瀬保

●砺波郡における近世新村の成立 昭38 富山史壇26号 佐伯安一他一名

●加賀藩における魚肥の普及 1977 日本歴史354号 高瀬保

●バイ船研究 第5号

 

 

北海道深川市における水稲老朽化苗床の
実態と育苗箱施肥の事例について

北海道空知北部地区農業改良普及センター
専門普及員 近藤 睦

はじめに

 北海道における水稲の育苗方法は,古くは手植え時代の水苗代・畑苗代を経て,機械移植栽培体系の進展に伴い育苗箱を使った各種育苗型式が発達した。現在,北海道の育苗型式を大別すると成苗ポット育苗型式と中苗マット苗型式がある。成苗ポット育苗型式は,不安定地帯における水稲の安定生産に大きく寄与した。特に平成5年の冷害を契機にシェアを伸ばし,現在では北海道の育苗型式の5割を占めるに至った。

 近年,成苗ポット育苗型式およびその前身であった中苗型枠苗形式など置床施肥を必要とする育苗型式において,肥料養分の蓄積に伴う,低pH,高EC,高りん酸化(水稲老朽化苗床)が問題となってきている

1.病んでいる水稲苗床

 老朽化苗床による苗への障害として「草丈の伸長不良」「葉先の褐変」などが認められ,これらはりん酸過剰障害の症状と考えられる。老朽化苗床の実態を把握するために,平成15年7月に深川市稲作経営研究会会員による市内水稲育苗床土の土壌分析を実施し,pH,EC,有効態りん酸,交換性塩基などを調査した。

(1)pH

 pHは,基準値4.5~5.0に対して基準値以下は65%,基準値以上は15%,基準値範囲内は20%であった(図1)。

 pHの低い苗床は,石灰が少ない傾向にある(図2)。

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(2)EC

 ECは,基準値0.2mS/cm(施肥前)以下に対し基準値以上が76%,基準値範囲内は24%であった(図3)。

(3)有効態りん酸

 有効態りん酸は,基準値20~40mg/100g(施肥前)に対し,基準値以下が5%,基準値以上が77%,基準値範囲内が18%であった(図4)。

 また,pHの低い苗床に有効態りん酸が高い傾向も見られる(図5)。

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 りん酸蓄積の主な要因として,置床施肥に使用される主な肥料銘柄が,りん酸の含有量の高い「山高型」肥料であることと,追肥などで使用される液肥にりん酸が含まれるものが多いことに起因すると思われる。また,移植後の育苗ハウスビニールのかけ続けも,雨水の浸入を防ぎ肥料分の蓄積に拍車をかけると思われる。

(4)苦土

 苦土は,基準値20~30mg/100g(乾土)に対し,基準値以下が13%,基準値以上が63%,基準値範囲内が24%であった。

 以上の実態から当地域の水稲育苗床土は,低pH・高EC傾向が進み,さらにりん酸の蓄積も認められる。現時点では,育苗時の大きな障害には至っていないが,慢性的なpHの低下は,石灰・苦土などの溶脱を促すことから改善対策が早急に必要である。

 ただし,この様な状況は,地域に限られた問題では無く,置床施肥による育苗を行っているすべての苗床の共通した問題点と思われる。

2.置床施肥に頼らない育苗技術の可能性

 老朽化苗床の実態調査から置床施肥の現状と問題点が示された。この低pH ・高EC・りん酸過剰の苗床を矯正するためには,置床施肥の施肥方法の見直しが必要である。このため,土壌診断に基づいた施肥設計を実施し,施肥量の見直しが行われているが,土壌診断は時間がかかり迅速な対応が困難であるだけでなく,安易な減肥対応では苗素質を悪化させる場合もあるなど,現場個々の状況に合わせて対応する必要がある。

 一方,米価の低迷により,経営の多角化・複合化が進み,水稲育苗後の育苗ハウスに野菜などを導入する場面もあり,水稲育苗に最適な土壌化学性を維持管理することが困難になっている。したがって,置床施肥に替わる施肥方法を確立し,水稲の健苗育成と水稲育苗後のハウスの有効利用の両立を可能とする育苗技術の開発を試みた。

(1)育苗箱施肥法の導入

 北海道の移植時期は外気温が低く,成苗ポット苗型式の移植早限の目安は,移植後5日間の平均気温で11.5℃に達した日としている。そのため育苗後半は,ハードニングを行い充分外気温に慣らすが,条件によっては移植直後の生育が一時的に遅延する場合がある。その回避策として,移植前に実施する育苗床での追肥(弁当肥)や,本田施肥の一部を表層施肥や側条施肥に置き換える手法が取られている。

 育苗箱施肥法は中苗マット苗型式などでは,施肥法として確立されているが,成苗ポット苗型式ではポット内の土量容積が限られることや,施肥機などの機械開発が遅れ実用には至っていなかった。また,北海道における育苗箱施肥法は,すでに府県で実用化されている「施肥の高効率化」や「追肥の簡略」目的だけではなく,肥効が育苗後半および移植直後から始まり本田での初期生育向上を図る「表層施肥」や「側条施肥」的な効果を狙いとしており,従来の府県でのデータだけでは対応しきれない点があった。

 平成9年より成苗ポット苗形式による育苗箱施肥を通常の播種機を流用し試験を開始した。

 試験開始当初は,育苗箱内に施肥する肥料を移植時から溶出するパターンで検討し,移植後の初期生育向上,本田施肥の一部を播種時に行うことによる省力化,施肥利用率の効率化による減肥などを目的に開始した。

 施肥機の開発は年々進み,性能は向上し平成14年に登場した試作機は実用に問題ないレベルに達した(写真1)。

 一方,肥料は被覆尿素肥料を使用し,育苗時の溶出による濃度障害回避および本田での肥効を検証した。

 試験開始当初は,肥料銘柄による肥効の違いを確認するとともに,育苗時の溶出による濃度障害の有無などを検証した。試験結果を経て被覆尿素肥料(LPS)を使用することで,育苗中の溶出を抑制し,障害を回避できることを確認した。しかし,移植後の肥効は北海道の場合温度条件が不安定で年次変動が大きく,肥料の選択(日数タイプなど)に課題を残していた。

 そのような経過の中で置床施肥に替わる施肥方法として,育苗箱施肥法の可能性を再検討した。

3.水稲老朽化苗床でのリン酸過剰回避施肥法試験結果

 りん酸過剰の顕著な水稲苗床で育苗箱施肥による健苗育成を検証した。

(1)試験場所

 深川市内生産者育苗ハウス
 育苗ハウスは,過去に花卉栽培を行っていたことから,EC・有効態りん酸が高い条件である(表2)。また,以前より育苗時にりん酸過剰障害と思われる苗の葉先枯れが見られた。

(2)前作

 水稲育苗

(3)供試品種

 きらら397

(4)供試資材名

 マイクロロング201,スーパーロング424-S70,ロング2401-S70(開発品)

(5)ポットの施肥位置

 粒径の小さいマイクロロングはセルの底面から培土,種子,肥料,覆土の順とし,その他のロングは施肥,培土,種子,覆土の順とした。

(6)試験処理

 播種日:4月8日 移植日:5月19日

(7)試験結果

①施肥自体は,多少のばらつきが認められた(写真2)が,大きな問題にはならなかった。
 供試資材の粒径・比重などで施肥量が変化することから,事前の調整は慎重に行う必要がある。

②ポットの根部に肥料が抱えられる様に肥料が固定され(写真3),肥料の溶出による根ヤケや濃度障害などは見られなかった。また,移植時の肥料の落下は散見されるものの,程度は少なく大きな問題にはならないと思われる。

③苗素質は,比較的溶出の速いマイクロロング201区の草丈がやや長く葉数も進み,風乾重の増加にも効果が認められた。
 一方,比較的溶出の遅いスーパーロング424区やロング2401区では,草丈・葉数とも慣行と差が無く,風乾重では慣行区を下回る結果となった。

④りん酸過剰障害は,各区ともに発生が認められたが,マイクロロング201区・スーパーロング424区・ロング2401区とも慣行区よりも発生程度は少なかった(観察)。

⑤移植後の初期生育は,草丈・茎数ともマイクロロング201区が優り,スーパーロング424区・ロング2401区はやや緩慢であった。
 7月以降の生育は記録的な低温の影響もあって生育差は認められなかった。

(8)考察

 本試験結果から土壌養分が過剰蓄積した育苗ハウスで,育苗時の置床施肥に代わる一手法として育苗箱施肥法は実用性があると思われる。

 作業性は播種時に施肥作業を行えることから省力化が見込める。さらに肥効が移植前に始まる資材については,育苗後半の追肥が不要となることが確認できた。

 一方,新たな課題として肥料の溶出特性や用途に応じた選択が必要であることが明確になった。また,コスト面では慣行の肥料に比べ,マイクロロングトータルの価格が割高であることと,専用の施肥機が新たに必要になることから資材・機材の低価格化が望まれる。

 さらに本試験では,育苗箱施肥からの箱下への肥料分の流亡は確認していないことから,置床への影響を検証する必要がある。

おわりに

 育苗床の老朽化は想像以上に深刻で,何らかの対応が必要な苗床が数多く存在する。

 近い将来多くの水稲育苗床で,富栄養化が顕著となり,置き床施肥が不可能になることも十分想定されることから,置床施肥に代わる施肥法の確立が急務である。

 その一手法として,育苗箱施肥法は施肥法として未完成であるが,大きな可能性を秘めていると思われる。

 今後は、さらに試験を積み重ね土壌への影響も検証し、育苗箱施肥法の確立させる必要がある。

 

 

肥料の常識・非常識(4)

越野 正義

尿棄の肥効は同等か

 前回に続いてHauckが間違いだという日本における尿素の常識について書く。

 彼は尿素の肥効が硫アンなどと同じというのは間違いだというのである。確かに当時,世界中の肥効試験データを集めて,尿素は硫アンなどの90%くらいが平均的と書いてある総説を読んだことがある。

 畑土壌で表面施用,局部施用するとアンモニア揮散があり,効果が下がる。ビウレットの影響や,亜硝酸の集積が怪しいとみられていたこともあった。水田においても尿素の加水分解が急激に起こると田面水中のアンモニア濃度が高まり,揮散が起こる。そのためウレアーゼ抑制剤(PPDA)を使えば,この損失がなくなるので尿素の肥効も高まるという報告がある。ただしコスト的にはあえて抑制剤を使うこともないという反論もある。

 日本では土壌とよく混合するなどで肥効の低下を避けるように丁寧に試験していたので,硫安協会が取りまとめた資料では尿素の肥効は同等と強調していた。大体,劣ると書いては普及にならない。

 いずれにしても尿素が決定的に安いために世界的に尿素が普及したので,肥効が劣るなどという議論はその後聞かれなくなった。

 被覆尿素では溶出が抑制されるために,土壌中で濃度が高まることがない。したがって局部的なpHの上昇やアンモニア揮散は最小限のはずである。被覆尿素の優秀性はこの点でも高く評価されるのである。

 (財 日本肥糧検定協会 参与)