§植物栄養学の先達たち-6-
ウォーリントン親子と口ザムステッド
京都大学名誉教授
高橋 英一
§西南暖地の代かき同時土中点播栽培における肥効調節型肥料を用いた省力施肥技術
九州沖縄農業研究センター
水田作研究部 水田土壌管理研究室
室長 土屋 一成
§肥料の常識・非常識(8)
越野 正義
§旧加賀藩政時代の虫塚から学ぶこと(後編)
石川県農業総合研究センター
生産環境部 病理昆虫科
農業研究専門員 森川 千春
§2004年本誌既刊総目次
京都大学名誉教授
高橋 英一
ウォーリントン(Robert Warington junior)はローズの顧問化学者であったRobert Warington seniorn*1の息子として,1838年にロンドンで生まれました。彼は体が弱かったので正規の学校へも大学へも行きませんでした。そのかわり彼は薬剤師会館(Apothecaries Hall)で教育を受け,父親の実験室で化学を学び,ファラデーやホフマンなどの講演を聴いたりしました。
体が弱かった彼は農村での仕事口を探し,1859年21歳のとき,ローズの小麦と牧草の灰分分析を手伝う無給の助手としてロザムステッドで一年間を過ごしました。このとき彼はロザムステッドで行われていた研究に非常に興味を惹かれましたが,1860年にはロンドンに戻り,しばらくの間サウスケンジントン(South Kensington)で研究助手として働きました。
1862年,彼はサイレンスター(Cirencester)の王立農業カレジ(Royal Agricultural College)に分析の専門家の一人として入りましたが,ここで最初のすぐれた論文を発表しました。それは水溶性のリン酸が土の中で不溶性にかわる問題で,彼は土の中の鉄アルミナがリン酸と結合して不溶性にする化学反応であるとしました。しかしリービヒはこれを認めず,木炭が物質を吸着するような物理的反応であると主張しました。
ウォーリントンは非常な勤勉家で,自分の仕事のほかにロザムステッドの肥育試験に供試された多数の家畜の灰分分析をひきうけて,ローズを助けたりしました。1863年には助手となり,翌年からは学生たちにローズの同意(ギルバートではない)を得て,ロザムステッドで行われた試験について講義を始めました。1866年にはそれを本にまとめる準備にかかり,1881年に”The Chemistry of the Farm”として刊行されましたが,これは20年間に14刷と4回の改訂を重ねるという,当時の農学の教科書のベストセラーになりました。
講義を始めたウォーリントンは1865年頃からギルバートに頻繁に手紙を送り,ロザムステッドで行われている試験の結果の詳細を尋ねていますが,その中でしばしば小さいくいちがいや返事が遅いことを指摘しています。後にローズを大変悩ますことになるギルバートとウォーリントンの関係の悪化は,この頃から始まったと思われます。
1867年ウォーリントンはサイレンスターを去り,MillwallのLawes Tartaric & Citric Acids Factories(前回紹介)の化学の専門家になりました。1876年ローズは試験研究に新天地を開こうとして,若い頃から関心があった土壌中の炭素と窒素の変化の問題を研究させるため,ウォーリントンをロザムステッドに招きました。
こうしてウォーリントンはギルバートと同じ屋根の下で仕事をすることになりましたが,これについてローズは事前にギルバートに相談していませんでした。ギルバートはこの暗黙の権利侵害に激怒し,ためにローズは二回にわたって第三者に二人の調停を依頼することを余儀なくされました。結局ウォーリントンはローズの私的な助手として,一年だけ実験室で仕事をすることでギルバートは同意しましたが,一年がたってもウォーリントンは居続けることになります。
ウォーリントンは硝酸,塩素,炭素の測定法を改良し,ロザムステッドで雨水,排水,井戸水の硝酸,塩素や土壌中の硝酸,炭素の測定を始めました。丁度この頃,下水の浄化中に起こる硝酸の生成は微生物によって行われることが発見されました。すなわちフランスのSchloesingとMuntzは,殺菌剤によって硝酸化成が止まること,殺菌剤を除いて下水を少々加えると硝酸化成は再開することを1877年に発表しました。ウォーリントンは早速これを土壌で試験して同様な結果を得,畑作物は土壌から硝酸態窒素を吸収することを確認しました。
ついで彼は硝酸化成に関与する微生物を明らかにしようとして,mycodermと考えられるものをアンモニウム塩溶液に加えたところ硝酸が,ときには亜硝酸が生成しました。さらに1879年にはアンモニアを亜硝酸に,1881年には亜硝酸を硝酸にそれぞれ酸化する液体培養に成功し,硝酸化成はアンモニアから亜硝酸および亜硝酸から硝酸への酸化という二段階で行なわれることを明らかにしました。
1886年彼はこの微生物を純粋分離したいと思い,ロンドンのブラウン研究所(Brown Institute)に行き,ゼラチン培養基で細菌を培養するコッホの新技術を学びました。そしてロザムステッドに戻り,この方法を用いて土壌から沢山の微生物を分離してその化学的特性を調べたところ,それらの多くは亜硝酸の生成と酸化をすることができたが,純粋分離することは中々出来ませんでした。ところが1891年になってウイノグラドスキー(Sergei N. Winogradsky 1856-1953)がアンモニア酸化菌と亜硝酸酸化菌の分離に成功しました。
ウイノグラドスキーは,硫黄や鉄の無機化合物を酸化してそのエネルギーで炭酸固定を行なう「化学合成細菌」を研究していましたが,硝酸化成を行なう菌もこれと同様な性質をもっているのではないかと考えました。化学合成細菌は有機物は不要であり有害でさえあるので,彼は有機のゼラチン培養基ではなく無機のシリカ培養基を使い純粋分離に成功したのでした。ウォーリントンはゼラチン培養基を使い続けたため,いま一歩のところでウィノグラドスキーに及びませんでした。しかし微生物学者としての名声は高まり,王立協会のフエローの地位を得ました。
一方この間もウォーリントンとギルバートとの関係はこじれ続けました。1884年になるとギルバートはウォーリントンに全く口をきかなくなりました。両者の確執の問題は,1889年に設置されたLawes Agricultural Trustの委員会でとりあげられ,裁定の結果ウォーリントンは1890年末をもってロザムステッドを去ることになりました。
1891年ウォーリントンは委員会から提供された第一回のLawes Agricultural Trust Lecture*2の講演者としてアメリカに行き,硝酸化成の問題などについて話をしました。帰国後彼はMillwallのLawesの工場でパートタイマーとして働き,1894年には3年間の契約で,オックスフォード大学のシブソープ農学教授職(Sibthorpian Chair of Rural Economy)*3に任命されました(前任者はギルバート)。そこで彼は研究テーマとして土壌の物理性の問題を選び,その成果は”Lectures on some of the Physical Properties of Soil”として発表されましたが,これはイギリスにおける土壌物理学の最初の著書になりました。
しかし14年の間ロザムステッドで行なってきた研究対象を失った無力感で,ウォーリントンは次第に農業化学に対する興味を失い,晩年は教育と宗教活動(教会の昼間学校Church Day Schoolなど)に傾いてゆきました。彼は1907年69歳で死去しました。
ウォーリントンとギルバートの確執は,ウォーリントンにとってもローズにとっても不幸な出来事でした。ローズは若いウォーリントン(ギルバートは3歳,ウォーリントンは24歳ローズより年下)をロザムステッドの後継者に考えていましたが,それは実現できませんでした。ギルバートは極めて几帳面な性格でしたが嫉妬深いところがあり,自分に与えられるべき名声が若い科学者達に盗られるのを気遣って,実験室で彼らが熱心に働くことを好みませんでした。ウォーリントンもギルバートも強烈で相容れない性格の持ち主であり,ついに同調することはありませんでした。
1900年ローズの死後,Lawes Agricultural Trustは試験場の運営をギルバートに委ねました。長年続けられてきた圃場試験と気象観測のデータは,ギルバートが訓練したスタッフ達*4によって中断することなく取り続けられました。しかし,もはや若い有能な研究者を惹きつけることはできず,試験場は沈滞していました。ローズの没後1年4ヶ月経った1901年12月23日ギルバートもまた亡くなりましたが,後を引き受ける人はすぐには見つかりませんでした。
1902年2月Wye CollegeからDaniel Hallがロザムステッドにやってきましたが,これはイギリスの農学研究に転機をもたらすことになりました。長い間イギリスの農学は経験的知識を重視し,これに基づいて実際問題を解決してゆくというやり方でした。農業者であったローズも圃場試験の実際経験を重視しましたが(リービヒはこれを批判しています*5),Hallは土の諸性質とその植物生育との関係(Soil Conditions and Plant Growth)を明らかにする科学を育てることを目標にしました。彼はこれこそ教師や普及員や農民にとって不変の価値があるという信念をもっていました。
スタッフも資金もともに乏しかったロザムステッドを引き継いだホールが先ずしたことは,ローズとギルバートによって60年間中断することなく続けられてきた圃場試験の成果を埋もらせてしまわないことでした。ホールはそれを明快な読みやすい文章でまとめあげ,1905年にThe Book of the Rothamsted Experimentsとして出版しました。この本は若い世代の農民や学生たちに,ロザムステッドの圃場試験の価値を知らせるのに大いに貢献しました。
しかしホールの最大の目的は,農業の科学の裾野を広げることでした。当時それにある程度関与していたのは化学だけでしたが,これでは不十分で物理学も生物学も微生物学も取り入れてゆく必要があるとホールは考えました。そしてそれを実現するため,資金集めと人材のリクルートに奔走し始めました。
ホールは天性の社交家でこの仕事に適任でした。またイギリスの地主の邸宅(Country House)はこの仕事をするのに大いに役立ちました。当時多くの地主たちは地域農業の再生に強い関心をもっており,地主夫人たちは屋敷の庭園を立派にしたいと望んでいました。ホールは地主の屋敷を訪れてそれらについて数々の助言をするとともに,晩餐後は部屋に飾られた絵画や焼物のすぐれたものを見つけて称賛したり,一緒にカードを楽しんだりしました。それで、彼は知識も趣味も豊かな人として何処でも歓迎されました。
それはロンドンの社交クラブでも同じでした。そこで彼は多くの有能な若い人たちとも親しくなりました。彼は近づくに値する人と近づく方法を知っていました。こうして次第に必要な資金が集まるようになりました。それは植物学,細菌学,土壌化学などのすぐれた専門家を雇い入れることを可能にし,そしてそれが核になって大学をでたての熱意のある若者をロザムステッドに引き寄せるようになりました。
1906年にホールは,ロンドンのUniversity CollegeからWinifred Brenchleyを植物学の専門家として招きました。彼女はロザムステッドの実験室で仕事をする最初の女性となりましたが,以後1945年まで38年間Botanical Departmentを主宰し,近代農業植物学の創始者の一人になりました。さらに1921年にはRobert Waringtonの娘Katherine Waringtonが加わり,36年間にわたってBrenchleyとともに農業植物学に貴重な貢献をしました。
ところでBrenchleyの著書の一つに”Inorganic Plant Poisons and Stimulants”があります。初版は1914年ですが,1927年に改訂増補された第二版が出版されました。これにKatherineは積極的な役割を演じ,微量要素ホウ素の発見者になります。私は西ヶ原の農業技術研究所にいたとき,この第二版を手に入れて勉強しましたが,それは京都大学ヘ移って最初に行なったホウ素の生理作用の仕事に役立ったという思い出があります。
1920年ロザムステッドの昆虫部のDavidsonは,水耕したソラマメにいろいろな化合物を与えアブラムシに対する摂食忌避効果を調べていた際,少量の硼砂がソラマメの生育を増進することを認めました。植物部のスタッフになったばかりのKatherineはこの問題をとりあげ,詳しい栽培試験を行ないました。その結果ホウ素は僅か0.08ppmあればソラマメは正常な生育をするが,全く与えなければ極めて特徴のある症状を呈し遂には枯死すること,また生育の全期間にわたって必要なことからホウ素の効果は刺激的(Stimulant)というよりも栄養的なもの(Nutrient)であることを認め,1923年Annals of Botany*6に発表しました。
しかし当時はホウ素の有害作用の方が問題であり(第一次大戦中米国産のカリ塩が多量のホウ素を含んでいたため作物に被害がでた),またマメ科以外の作物に対する必須性を明らかにしていなかったので,マメ科植物の特殊な栄養生理がホウ素を要求するものとみられていました。
ところが数年後,SommerおよびLipman(1926)が水耕でヒマワリ,ワタ,オオムギ,ソバ,ヒエ,アマ,カラシについてホウ素の必須性を認めました。さらに1931年にはBrandenburgがはじめて野外におけるホウ素欠乏症を発見し,従来原因不明の生理病と考えられていた砂糖大根の心材腐朽はホウ素欠乏に原因するもので,ホウ素の施用によって治癒し得ることを証明するに及んで,ホウ素は植物の微量必須元素として認められるに至りました。これによってKatherine Waringtonは,微量要素ホウ素の最初の発見者として植物栄養学の歴史に名を残す栄誉を得ました。
このシリーズの”はじめに”のところで紹介した書物”Soil Conditions and Plant Growth”の著者であるEdward John Russell(1872-1965)は,1907年にWye Collegeからロザムステッドにやってきました。そして1912年Hallの後をついで試験場長になり,1943年まで長くその職にありました。このRussellはKatherineを子供の頃からよく知っており,彼女の才能に目をつけていたと言っています。Katherineがロザムステッドのスタッフに加わったのは,Russellが場長になった9年後のことでした。Warington家とロザムステッドの緊密な関係は,Katherine,彼女の父Robert junior,祖父Robert seniorの三代,百年以上にわたるものになりました。
自然科学が対象にしているのは非人情の世界です。したがって自然科学の報文やそれをもとに記述される教科書などに人の影はありません。われわれがそれらを読むときは書かれている事実のみをたどり,どのような性格の人がどのような社会的状況下でそれを得たのかについて思いを致すことは無いのが一般です。しかしその背後には,いろいろな人間くささや葛藤もままあったにちがいありません。このような面に目を向けてみるのも面白いのではないかと思い駄文を草した次第です。
おわり
*1 Robert Warington senior(1807-1867)は化学協会および王立農業カレッジの創立者の一人で,薬剤師協会(Society of Apothecaries)の技術責任者を長らく務め,また化学の専門家として,いろいろな法律上の問題のアドバイザーとして活躍した。その中で彼は過燐酸石灰の特許をめぐる訴訟や,いくつかの工場の買収,売却の問題でローズを助けた。彼の息子Robert juniorは生来虚弱であったので,ロンドンよりも田舎で仕事につかせることを望んだ彼は,関係のあったローズに頼んでロザムステッドに採ってもらった。
*2 ローズはロザムステッドの試験成果を広く公表し続けることを望み,試験場の成果を発表するためにアメリカ合衆国ヘ2年ごとに講師を派遣するという条項をトラストの規定に盛り込ませた。
*3 この教授職は1796年にケンブリッジ大学の植物学教授であったジョン・シブソープの遺言によって設立されたが,その主要な条件は彼の大作”Flora Gracca”を先ず出版することであった。この出版は費用のかかる仕事であり,1840年までは教授職に対して支払う報酬はなかった。
*4 ギルバートはロザムステッドにきた時から圃場試験の作物収量の詳細な記録と気象データを取り続けた。この労力の要る単調な仕事を続けてゆくため,ギルバートは村の学校から少年達を預かって教育した。そしてその中から能力のあるものは試験場のスタッフとして育てられ,村のエリートになった。
*5 リービヒは著書の中でつぎのように批判している。「ローズは農耕の法則や原理の研究にたずさわったのではなく,ただロザムステッドの畑で穀物やカブの収量を高めるために,それに適した肥料をみつけようと努力したに過ぎない。それはロザムステッドだけに意義があるのであり,実際の農業全体にとっては何の価値も持たない。」
リービヒ「無機質肥料の歴史」より,吉田武彦氏の訳による。
*6 Katherine Warington:The Effect of Boric Acid and Borax on the Broad Bean and certain other Plants Annals of Botany 37 629-672 1923
これは彼女の学位論文(ロンドン大学)である。
●George Vaughan Dyke:
John Lawes of Rothamsted-Pioneer of Science Farming and Industry Hoos Press 1993
●Sir E. John Russell:
A History of Agricultural Science in Great Britain 1620-1954 George Allen & Unwin Ltd. 1966
●Dictionary of National Biography XX p844 “Robert Warington senior”
九州沖縄農業研究センター
水田作研究部 水田土壌管理研究室
室長 土屋 一成
九州農業試験場(現在の九州沖縄農業研究センター)で開発された水稲の代かき同時土中点播直播栽培は,酸素供給剤で被覆した催芽種子を代かき直後の土中に点播し,その後落水するため,出芽が良好で,草型も移植に近く,耐倒伏性に優れ,全国的にもスクミリンゴガイ(いわゆるジャンボタニシ)の食害の少ない地域を中心として普及面積が増加してきており,経営規模の大きい農家には有利とされている。この代かき同時土中点播栽培においても移植栽培と同様に,肥効調節型肥料を用いた省力施肥技術が重要と考えられる。これにつ
いては大分県で省力施肥技術の開発試験がなされている1~2)。
これらと相前後して,筆者の所属する水田土壌管理研究室においても,1995年~2003年にかけて,代かき同時土中点播直播栽培に適した省力的施肥技術を開発する目的で,
1)点播直播に適する肥効調節型肥料の選定,
2)落水管理が施肥窒素の動態に及ぼす影響,
3)肥効調節型肥料の施肥位置が水稲の生育・収量に及ぼす影響,
4)稲わら,稲わら堆肥および麦わら等の有機物連用により地力窒素の異なる水田における肥効調節型肥料の適切な施用量の策定
について行ってきた。ここではその中で得られた主な研究結果3~8)を紹介する。
1996年から1998年にかけて北部九州の灰色低地土で,代かき同時土中点播栽培した水稲品種「ヒノヒカリ」の最高分げつ期までの生育はリニア型溶出のLP100区で旺盛であったが,それ以降の生育が不良で,有効茎歩合は61%と低かった(表1)4)。これに対し,シグモイド型単独(LPS100,LPSS100)区では初期生育はリニア型よりも劣ったが,有効茎歩合は69~77%と高かった。また,LP50とLPSS100とを1:2に配合するとLPSS100単独施用よりも初期生育は旺盛となった(表1)。

さらに,穂数はリニア型とシグモイド型で410~420本/㎡と大きな遠いはなかったが,籾数はシグモイド型で33,000~34,000/㎡と多く,多収となった(表2)。なお,玄米窒素含有率,検査等級等の食味,品質面については,肥効タイプによる大きな違いは認められなかった(表2)。

一方,分げつ期の窒素含有率はリニア型(LP100)で高かったが,それ以降の低下が大きかった(表3)。シグモイド型単独(LPS100およびLPSS100)およびLP50とLPSS100の配合では,分げつ期~穂揃期まで硫安分施と同等以上の窒素含有率を維持した。さらに,分げつ期に窒素含有率が低く,幼穂形成期に高いと籾数が多く,多収となった(表3)。

以上のことから,リニア型単独(LP100)よりもシグモイド型単独(LPS100,LPSS100)およびリニア型とシグモイド型との配合(LP50とLPSS100)の方が収量でまさり,その要因は溶出パターン(図1)が示すように生育中~後期の窒素供給力であると考えられた。

LPS100,LPSS100,LP50とLPSS100の配合品とを比較すると,LPSS100では明らかに初期生育が劣り,穂数は少なかったが,幼穂形成期以降の窒素供給により有効茎歩合が高く,1穂籾数が最多となり,統計的有意差は認められないものの,収量は最も高くなった。暖地の代かき同時土中点播栽培においては,生育初期の生育が旺盛で,生育中~後期に窒素不足となりやすい9)ので,LPSS100単独施用は初期生育を抑え気味にできることと幼穂形成期以降に窒素を供給するため,本直播栽培に適合した肥料といえる。
落水出芽法によって出芽苗立ちを安定させることができるようになったため,本直播に最も適した肥効調節型肥料の肥効タイプはLPSS100単独施用に相当するものと考えられる。しかし,排水不良田等で落水出芽法の効果が得られにくい圃場では,LPS100を単独で用いるか,あるいはLPSS100とリニアタイプまたは速効性肥料を併用して初期生育を確保する必要があると考えられる。ただし,次に述べるように速効性肥料は落水管理を前提とする直播栽培の基肥には適していない。
代かき同時土中点播栽培では,基肥に速効性肥料を施用すると,例えば,硫安では落水管理によって表面流去で18%,脱窒などによる揮散で56%の合計約75%が播種後60日で消失し,湛水管理の2倍程度の消失率となった5)(図2)。水稲による利用率も落水管理では33%であったが,湛水管理では初期から著しく低下し,その1/5程度の7%と極めて低かった。しかし,湛水条件で施用された追肥の硫安は落水管理の影響は受けなかった。さらに,肥効調節型肥料についてもリニア型(LP100)およびシグモイド型(LPSS100)ともにその溶出,水稲による利用率,土壌への残存率および消失率のいずれについても落水管理の影響を受けなかった。なお,稲の草丈,茎数は肥料の種類にかかわらず落水管理の影響を受けなかった。また,窒素吸収量は肥効調節型肥料ではいずれも落水管理の影響を受けなかったが,硫安では落水管理により低下した。

以上のことから,代かき同時土中点播水稲栽培のように落水管理を前提とした湛水直播では,基肥として速効性窒素を用いるのは好ましくなく,肥効調節型肥料を用いることが有効であると考えられた。
肥効調節型肥料の施肥位置がすじ状,点状施用(図3)においては全面全層よりも茎数はやや多く推移した(表4)。さらに,穂数はすじ状,点状施用において全面全層施用よりもやや多かったが,玄米収量はいずれの施肥位置でも同等であり,窒素吸収量,施肥窒素利用率も施肥位置にかかわらずほぼ同等であった(図3,表4)3)。


以上のことから,暖地の代かき同時土中点播水稲栽培においては,シグモイド型溶出のLPSS100を施用する場合,全面全層施用,すじ状施用,点状施用のいずれでも施肥窒素の利用率,収量には変化がなく,施肥位置については施肥効率を高める意味での側条施肥等は必要がないことが明らかとなった。
地力窒素の異なる水田ではそれぞれの窒素地力に応じた減肥が可能と考えられるが,九州沖縄農業研究センター水田作研究部では1963年から稲わら,稲わら堆肥および麦わら等の有機物を長期連用している圃場があるので,この圃場をモデルに肥効調節型肥料の適切な施用量の策定を行った。
九州沖縄農業研究センター内(福岡県筑後市)の細粒灰色低地土で,小麦跡に水稲品種「ヒノヒカリ」を用い,栽植密度16.7株/㎡(条間30cm×株間20cm)で代かき同時土中点播直播機を用い,2001年~2003年の3ヵ年にわたり6月12日頃に播種した。収穫はいずれも10月15日であった。供試肥料は速効性窒素肥料(48化成),リニア型溶出肥効調節型肥料LP50+シグモイド型溶出肥効調節型肥料LPSS100を1:2に配合したもの,リン酸及び加里はPK化成,追肥は硫安で行った。
施肥時期は化学肥料単用の場合,基肥を6月11日頃,中間追肥7月22日頃,穂肥は8月9日頃行った。リン酸及び加里は全量基肥施用,いずれの肥料も全面全層施用である。施用量は慣行をN7kg/10aとし,肥効調節型肥料については有機物無施用,麦わら連用はN7kg/10a,5kg/10a,稲わら連用,稲わら堆肥連用はN5kg/10a,3kg/10a,P2O5およびK2Oは9kg/10aとした。
2002年および2003年の水稲作付前土壌の理化学性の平均値は表5のようになっており,有機物無施用土壌では交換性K2Oおよび可給態窒素の1つである熱水抽出性窒素10)が4mg/100g乾土以下と低く,窒素地力は最も低かった。これに対して,稲わら堆肥連用土壌,稲わら連用土壌は熱水抽出性窒素が6mg/100g乾土以上となり,窒素地力は最も高く,交換J性CaO,交換性K2Oも高かった。また,麦わら連用土壌は有効態P2O5が高く,熱水抽出性窒素は有機物無施用区と稲わら連用区,稲わら堆肥連用区の中間の5mg/100g乾土程度であり,窒素地力は中程度であった。

一方,無窒素区の水稲窒素吸収量で地力窒素を判定する方法もあり11),これは年次変動が大きいため2000年~2003年の平均でみると,有機物無施用区は6kg/10a,麦わら連用区7kg/10a,稲わら連用区7.5kg/10a,稲わら堆肥連用区8kg/10a程度であった(図4)。これを福岡県における地力の判定基準11)と照らし合わせると有機物無施用区は地力低,麦わら連用区は地力中,稲わら連用区は地力中~高,稲わら堆肥連用区は地力高に相当していた。

2001年~2003年の肥効調節型肥料の積算溶出率は3ヵ年を平均すると図5のようになった。

3ヵ年とも肥効調節型肥料の溶出は安定しており,LP50の積算溶出率は6/28(15日目)で36.0%,7/13(30日目)で64.3%,7/26(43日目)で81.4%,収穫期の10/13には98.4%に達した。一方,LPSS100はそれぞれ,0.3%,2.8%,16.7%で,8/29(77日目)で79.9%,9/10(87日目)で88.0%,収穫期の10/13には94.1%に達した。
すなわち,7月下旬の水稲の最高分げつ期までにLP50が80%以上溶出して,基肥および中間追肥の役割を果たし,最高分げつ期以降,LPSS100の溶出が始まり,8月末の出穂期を中心として穂孕期から9月上旬の穂揃期までには80%以上溶出し,穂肥の役割を果たしていた。
従来の施肥法では,穂肥Ⅱを施用するが,これについては,大分県農業技術センター化学部の井水ら1)が,細粒黄色土水田で水稲品種「ヒノヒカリ」の代かき同時土中点播直播栽培で,さらなる低コスト化と環境負荷軽減を図るため,被覆尿素肥料を用いた全量基肥施肥法を別途検討しており,速効性窒素肥料と被覆尿素肥料の配合割合(緩効率)が地力の異なる水田での窒素肥効や生育・収量に与える影響を明らかにしている。
すなわち,大分県の平坦地における6月上旬播種の「ヒノヒカリ」の代かき同時点播直播・全量基肥栽培においては,速効性窒素肥料と被覆尿素肥料(45日抑制で100日溶出タイプのLPSS100)の配合割合は3:7程度が良く,慣行施肥栽培とほぼ同等の収量を得るためには,地力中庸水田では慣行に比べ1割減肥,高地力水田では2割程度減肥できるとしている。
また,施肥窒素利用率は,高地力水田で低く,地力由来の窒素寄与率は高地力水田で高いことを報告している。また,大分県の中山間地における「こいごころ」の全量基肥施肥にも速効性窒素肥料と被覆尿素肥料(LPSS00)の配合割合は3:7程度が良いことが示されている2)。すなわち,大分県の場合,いずれも速効性肥料とシグモイド型肥料を3:7に配合すると良い結果が出ている。
しかし,最近の食味重視から施肥基準の改訂11)に伴い,これらとほぼ時期を同じくして穂肥Ⅱを省略した3ヵ年(有機物無施用区のみ2ヵ年)の肥効調節型肥料のみを用いた減肥試験を行った。ここでは,福岡県のヒノヒカリの目標収量(低地力水田で510kg/10a,中地力水田で530kg/10a,高地力水田で550kg/10a以上)11)と食味に関連する玄米窒素含有率1.3%以下(玄米タンパク質含有率では6.6%以下)12,13)および肥効調節型肥料を用いた場合の収量低下が慣行施肥の場合の5%以内に留まることの3点から減肥指標を策定した6~8)。
その結果,熱水抽出性窒素4mg/100g以下で地力の低い有機物無施用区では肥効調節型肥料を使用する場合,慣行施肥量7kg/10aの30%減肥の窒素5kg/10aでは7%の減収となり,目標収量510kg/10aが達成できないが,窒素7kg/10aでは慣行と同等の収量が得られ,玄米窒素含有率も1.3%を超えなかったため,窒素7kg/10aが適切と考えられた(表6)。

これに対し,地力が中程度(熱水抽出性窒素5mg/100g程度)の麦わら0.6t/10a連用区および地力中~高の稲わら1t/10a連用区(熱水抽出性窒素6mg/100g以上)では,慣行施肥量7kg/10aの30%減の窒素5kg/10aでも地力窒素の吸収量が有機物無施用区に比べ多いため,5~6%程度の減収にとどまり,玄米窒素含有率も1.3%を超えることが無く問題ないと考えられた(表6)。
熱水抽出性窒素6mg/100g以上で地力の高い稲わら堆肥2t/10a連用区でも30%減肥の窒素5kg/10aで3%程度のわずかな減収にとどまり,玄米窒素含有率も1.3%を超えることが無く5%以内の減収なら,さらに減肥できると考えられた。
なお,肥効調節型肥料の減肥栽培により千粒重がやや低下するものの,玄米の検査等級にはほとんど影響がなかった。
九州農業試験場(現在の九州沖縄農業研究センター)で開発された水稲の代かき同時土中点播直播栽培に適した肥効調節型肥料はLPSS100単独あるいはLP50とLPSS100を1:2に配合したものが適し,施肥位置は全両全層,すじ状,点播状のいずれでも収量・品質に変わりはないこと,落水管理をするので,湛水管理に比べ,肥効調節型肥料の利用率が速効性肥料より高まること,窒素地力の異なる圃場では慣行施肥量の最大30%程度まで減肥でき,減収も5%以内に留まることなどが明らかとなった。夏の暑い時期の追肥作業を省略できる肥効調節型肥料をうまく使うことによって,環境保全を図るとともに,省力的な施肥が可能となることはこれからの農業にとって有意義なことになると思われる。
1)井水敦・下村真一郎(2002)
水稲品種「ヒノヒカリ」の代かき同時土中点播直播栽培における全量基肥施肥法,九州沖縄農業研究成果情報,16,525-526
2)佐藤吉昭・清水康弘・平山孝行・大友孝憲(2003)
中山間地域における水稲点播直播の生育特性と安定栽培技術,大分農技セ研報,30,1-15
3)西田瑞彦・土屋一成・田中福代・脇本賢三(1999)
湛水土中点播水稲栽培におけるシグモイド型被覆尿素肥料の施肥位置の影響,日土肥講要集,45,453
4)西国瑞彦・土屋一成・田中福代・脇本賢三(2000)
打ち込み式代かき同時土中点播直播水稲の生育・収量に及ぼす溶出タイプの異なる肥効調節型肥料の影響,九農研,62,50
5)西田瑞彦・土屋一成・森泉美穂子(2002)
湛水直播栽培に施用した異なる肥料の窒素動態に対する落水管理の影響,日土肥講要集,48,244
6)土屋一成・西田瑞彦(2001)
有機物施用の異なる湛水土中点播水稲の生育・収量に及ぼす肥効調節型肥料の施肥量の影響,日作紀70(別2),241-242
7)土屋一成・西国瑞彦・原嘉隆・草佳那子(2002)
有機物長期連用水田における肥効調節型肥料を用いた点播直播水稲の施肥,日土肥講要集,48,119
8)土屋一成(2004)
ショットガン直播水稲ヘの被覆尿素肥料の減肥指標,九州における代かき同時土中点播稲作技術の確立マニュアルその2,25-26
9)吉永悟志・竹牟礼穣・脇本賢三・田坂幸平・松島憲一・下坪訓次(2002)
暖地の湛水直播栽培における土中点播水稲の生育特性-後期重点施肥による生育特性の変化と収量性の向上-,日作紀,71,328-334
10)北海道立中央農業試験場・北海道農政部農業改良課(1992)
土壌および作物栄養の診断基準-分析法(改訂版)-,p80
11)福岡県農政部農業技術課(2003)
福岡県水稲・麦施肥基準 p.11-28
12)角重和浩・山本富三・井上恵子・末信真二(1993)
水稲品種ヒノヒカリの窒素吸収パターンの解析 第3報 窒素吸収量の違いが玄米中の窒素濃度及び食味に与える影響,九農研,55,49
13)田中浩平・角重和浩・山本富三(1994)
ヒノヒカリの窒素栄養診断 第3報 窒素吸収量と玄米窒素濃度・食味との関係,福岡農総試研報A-13,9-12
越野 正義
肥料とは植物の栄養になる成分を供給する資材である。(厳密には土壌の化学性を変える資材も含むがここでは簡略に議論する。)
栄養となる成分がすべて肥料の主成分(有効成分)かというと必ずしもそうではなく,政令で定めた成分のみをいうことになっている。そのため微量要素はマンガン,ホウ素を除いて主成分として扱わない。硫黄は三要素に次いで重要な栄養元素であり,植物の吸収量も窒素の1/5~1/10と多いがこれも主成分に含めていない。世界的にみると硫黄の欠乏地帯は多く,学者によっては窒素の次に重要という人もいるが,日本ではほとんど無視されてきた。窒素肥料として尿素ばかりを使っているといずれ硫黄欠乏が無視できなくなると考えている。
カルシウムも本来は栄養成分であるが,現在は酸度矯正のためのアルカリ分としてしか評価していない。そのため葉面散布用の塩化カルシウムなどは特殊肥料であり成分の保証がされない。
主成分では元素としての絶対量ではなく,その形態が問題である。リン酸,カリウムなどではある溶媒に一定条件で溶出した可溶性成分で定義する。ただしこのような可溶性は必ずしも絶対的なものではない。アメリカのAOAC法では中性クエン酸アンモニウム溶液で浸出したリン酸を有効態リンと称しているが,この時に浸出した残さの吸収試験を行なうと案外有効だったという実験がTVAで行なわれたことがある。
有効態というのは概念であるが,実際に測定するのは約束ごとの可溶態であり,国によって有効態の内容が違っているのである。
(財 日本肥糧検定協会 参与)
石川県農業総合研究センター
生産環境部 病理昆虫科
農業研究専門員 森川 千春
虫の供養に関して,もう一つ余談がある。小松市教育委員会の資料11)には「なお岩渕では,十六俵にして,西光寺跡に埋め,同じく虫塚とした。」とある。そこで岩渕町に探索に出かけた。加賀産業道路を,埴田からさらに小松方向ヘ進み約1km,軽海西交差点を左折してさらに約2km走り,ケアハウス前の信号のない交差点を右折して岩渕大橋(小さな橋であるが!)を渡ると岩渕町である。このあたりは埴田とは対照的に川沿いのいわば谷筋にあたる。
住宅地図には「西光寺跡」なるものは見当たらず,とりあえず町内に一つある神社に向かったが虫塚はない。もう一度住宅地図を良く見る。すると,岩渕町公民館になにやら”円筒形のマーク”が記してある(これだっ!)。果たして,虫塚はあった(図4)。公民館前に丁寧に奉られていた。西光寺跡から明治時代に移築したらしい。埴田のものと同形だが,やや小さく,石川縣史第三篇3)には「その埴田にあるものは高さ五尺三寸,礎石の高さー尺。岩渕のものは高さ四尺なり。」とある。実測では直径25cm,高さ135cmであった。やはり碑文が記されている。

大筋では埴田とほぼ同じものであるが,岩渕のものはやや短い。こちらは「緒言」を短縮した「短報論文」形式である(材料と方法,結果および考察,の部分を省略していないところが凄い!)。また埴田では漢字であったものが,岩渕ではカタカナに変わっている箇所が多い。埴田では埋められた虫は23俵,岩渕では16俵。「埋めた虫の数が少ない分,手を抜いたのだろうか?」初めはその程度に思った。これは前半,当たっていたが,後半,まったく外れていた。なんとなく”比率”が気になったのである。
埴田の虫塚の碑文は175文字,簡単な比例計算をしてみよう。23俵:16俵=175文字:χ文字 χ≒121.7 岩渕の碑文の文字数はなんと122文字である! 手を抜いた,などとはとんでもない不謹慎な話だ。虫の数に文字数をピッタリ合わせてある。この文字数の一致は,霊を慰めるというより,むしろ崇りを畏れていたのではないかと思わせる。碑文を墓碑銘として虫の霊を鎮め,石碑によって封じようとしたのであろう。
さて,そうなってくると当然考えるべきは,埴田を「正」とすると「副」に位置付けられる岩渕の虫塚の位置である。まず思い浮かぶのは鬼門であるが,これは丑寅(北東)の方角。岩渕は徳橋組の辰巳(南東)の端にある。”辰巳””方角”で検索をかけると興味深い記事にあたった。愛知県北設楽郡の「花祭り」に関するもので”東栄町の場合,<辻固め>は本来「辰巳」の方角つまり「南東」に”13)とある(これだっ!)
「辻固め」は悪霊の侵入を防ぐもの。当時,虫害は悪霊のしわざとも考えられていた。これならば話は早い。この「花祭り」は,釈尊降誕を祝い誕生仏に甘茶を掛ける「仏生会」のことではない。天竜水系に伝わる,悪霊を祓い五穀豊穣を祈るもので8),柳田国男に「苟しくも民間芸術を談ずるの士は之を知らなければ恥」とまで言わせた2)祭(昭和51年・重要無形民族文化財指定)である。
愛知県といえば加賀藩初代藩主・前田利家の出身地。芸能好きで知られる利家が「花祭り」を知らないはずはない。これは幾分こじつけの論理かもしれないが,利家は長篠の合戦における設楽原決戦で鉄砲足軽を指揮している。北設楽出身の兵もいたのではないか。
さらに信濃性のあるものがある。古老の言に依ると,「花祭り」の起源は,延喜(901~923年)の頃,一人の聖が「加賀白山」の祭神「菊理姫尊」の分霊を東栄町古戸の地に祀ったことにあるという1,2)。この古戸の「白山神社」では「花祭り」に先立ち「白山祭り」が行われる12)。いっぽう,徳橋組のあたりは白山信仰の寺院として白山五院の下に位置する中宮八院のあった中心地である10)。
天竜水系から信州戸隠,さらに越後栃尾まで続く山岳地帯は修験者や戦国武将の道でもあり,戦時において山伏(修験者)は呪術や伝令,間諜(スパイ,密偵)を担っていた。中でも加賀国白山は,今川氏親から遠江国での先達職を,豊臣秀吉と徳川家康(後,徳川家も同様に)から三河・遠江・駿河(愛知県東部~静岡県中西部)での先達職を保障されていた15)。先達とは峰入などの修験道の修行を指導する者である。
先達職を保障され,三河・遠江・駿河を駆け巡っていた白山信仰の修験者が,白山の祭神を祀った社を訪れるのは当然のことであろう。古戸を訪れた(あるいは長期滞在した)修験者によって「花祭り」における辰巳の方角の「辻固め」の神事が徳橋組に伝えられていても不思議ではない。事実,前出の「(岩渕)町内に一つある神社」は「白山神社」なのだ!
岩渕の「白山神社御造営記念碑」には,「白山神社は中宮八院の一つ善興寺の鎮守にしてもと加比曲の山頂に有り天保年間に町内の中心部に勧請し・・・」との由来が書かれである。虫塚を建てた同じ時期にわざわざ山項から移しているとはただごとではない。西光寺跡(当時すでに”跡”であった)はまさに徳橋組の南東端・岩渕の村はずれ「辻固め」の位置にあったのではなかろうか。そして,「辻固め」の虫塚を守る岩渕村では,虫塚の建立と同時に勧請(神仏の分霊を移して祀る)した「白山神社」で悪霊封じ,五穀豊穣の祭事が行われていたとは考えられないか。
さらにもう一つこじつけてみたい。「花祭り」において,「辻固め」と対をなすものに「高根祭」がある。「高根祭」とは,花宿(花祭りの場)の小高い地を選んで祭り場とし,幣を立て供物を献じ,天や山よりの諸神霊を祭り,悪魔や天狗をここで防ぐもの8,9)で,以前は戌亥(北西)に設けるのが基本であった15)。「辻固め」とは,花宿の高根祭の祭り場と反対方向の平地に幣を立て供物を献じ地上の諸霊を祭り,悪魔天狗をここでも防ぐもの8,9)で辰巳(南東)に設けるのが基本である15)。この二つをあわせて「かどじめ」という2)。先にもふれたが,埴田の虫塚は十村在所の小高い地点にあるのに対し,岩渕はまさに谷筋に向かう平地である。加えて,埴田と岩渕は北西と南東の位置関係にある。「幣」を「虫塚」に,「花宿」を「十村在所」におきかえるだけで双方の関係はみごとに符合してくる。ここに広大な範囲におよぶ「かどじめ」を完成させようとしたのでないか。
「十村在所」における「祭場」も特定してみよう。埴田の虫塚の東400m,埴田の中心部には「徳橋神社」があり,今でも虫送りの祭事が執り行われている。「徳橋神社」は元「稲荷社」と言い,同じく埴田にあった「宇野神社」と「白山社」(これだっ!)を,明治40年に合祀し改称している10)。合祀前の「白山社」は「村の南方天山の地」10)にあった。
埴田町の古老・池田勇氏によると「天山(てんやま)」は現・徳橋保育所のあたり,すなわち徳橋神社の南東300mの位置にあったという(図5)。山の土は梯川の堤防工事に使われたため,今では平地になっている。この「天山」から見た方位を分界としてとらえると,埴田の虫塚は「戌亥」の範囲内にあり,岩渕町全体(西光寺跡がどこであったにせよ!)も「辰巳」の範囲内に入ってくる(図5)。なによりも「天山」は引越して来た田中家が最初に居を構えた地であり,「白山社」は「田中家が屋敷神として創祀したもの」との推論も提起されているのだ10)。田中家と白山信仰も繋ってくる。

考えれば考えるほど「花祭り」との関連が浮かびあがってくる気がしてならない。二つの虫塚は対になってこそ意味を持つ。「埴田の虫塚」ばかりがクローズアッフされている感があるが,「岩渕の虫塚」の持つ意味は再考されるべきであると考える。
岩渕の虫塚の謎解きを試みるなかで見えてくるのは,表向きは,淡々と科学論文然とした碑文により後世のための教訓を残しながら,その裏側では,農民感情への配慮を忘れず,碑文を練り文字数を合わせ,一つは中心の「十村在所」に「高根祭」として神霊の加護を祈り,もう一つは「辻固め」として「辰巳」の方角に建てて悪霊の侵入を防ぎ,この二つの虫塚が作り出す結界「かどじめ」の中で祭事を執り行い,農民を虫の愁,すなわち崇りから守ろうと腐心する十村役,田中三郎衛門の姿である。
実は,この付近一帯,非常に史跡の密度が高い。それも”ビッグ・ネーム”ばかりである。「埴田の虫塚」から300m金沢より(一つ手前の交差点)には加賀藩第三代藩主・前田利常を茶毘に伏した地,「灰塚址」があり,昭和二十九年九月建立の「加越能国主 従二位前田利常公灰塚之址」の石碑が建っている。埴田から「岩渕の虫塚」までは約3kmの道のり,岩渕からさらに700mほど鳥越方面に進んだ原町は,平清盛の寵愛を受けた白拍子「仏御前」の生没地,小松市指定文化財「仏御前の墓」と「屋敷跡」がある(図6)。

そして二つの虫塚を建てた十村役・田中家は源義経に兵法を教えた鬼一法眼の末裔と伝えられる。多様な史跡であるが,それぞれが無関係ではない。稿を起こすにあたり,インターネットで検索してみたが,土地柄,中学校・高等学校の自由研究,課題研究で個々の史跡を研究したものが見られた。しかし,相互の関連性について考察したものは,まだ無いようである。さらに一歩進んで,この関連性を研究するのも面白いのではないか? 平家ゆかりの仏御前の眠る地のそばに,源義経にかかわる系譜を伝える十村が入ってくる意味など,きわめて興味深い。仏御前の平家(寵愛を受けたとはいえ早々に清盛のもとを去っている)や村人(村人は崇りを畏れていたという伝承もある)に対するスタンスが複雑微妙であり,そこに源氏の名が絡んでくる。
この源氏の名,もう一つ別の意味もある。平家の武将,斎藤別当実盛が稲株につまずいたために討ち取られ,その怨霊が実盛虫と化し稲を害するとの伝説である。この実盛,元は源義朝の家来であり幼少の義仲を助けて木曽に逃がし,後に平宗盛に仕え,そして義仲の家来に討ち取られている。やはり複雑微妙な立場である。西日本では「虫送り」のことを「実盛送り」という。虫送りの囃し調を「虫送り系」と「実盛送り系」に分けると,「実盛送り系」は大阪以西に分布する7)。しかし,実盛が討ち取られたのは石川県加賀市(篠原の戦い)である。ここでもまた「実盛塚」や「首洗池」の史跡が関連してくる(図6)。
石川県の「実盛塚」は西日本でいう虫供養のためのものではなく,実盛本人を供養したものだ。「首洗池」には実盛の首を抱きしめ嘆き悲しむ義仲の像が建てられている。篠原古戦場(北陸自動車道・片山津インターそば)と埴田の距離は直線にして約15km,まさに元祖「実盛虫」か? いや,逆の見方をすれば,「ご当地」であるが故に「平家物語」や「源平盛衰記」の人気者・実盛を害虫扱いすることを拒んで「虫送り系」に入ったとも考えられる。実盛の怨霊化虫伝説の起源・流布・拡大については多くの考察(斎藤実盛由来説を退けるものも多い)がなされてきているが,この伝説の流布・拡大を拒む要因にふれたものは見当たらない5)。
悲劇,そしてある種の美談として伝える土地柄に化虫伝説を受け入れる下地はないであろう。実盛伝説の起源,由来の真偽はともかく,当時,西日本を中心に実盛怨霊化虫伝説は広く受け入れられていたことに遣いはなく,これを受け入れるにせよ,拒むにせよ,稲作の指導監督をする十村が源義経の師の末裔であることにはなんらかの政治的あるいは信仰的な意味があったのではないか。興味はつきないところであるが後の研究に委ねることにしたい。
加賀産業道路は軽海西交差点よりさらに小松方面ヘ進むと約2km,八幡温泉東で国道8号線小松バイパスに合流する。福井方面よりお越しの場合は小松バイパスを八幡インターで降り,鳥越方向ヘ右折すると加賀産業道路に入る。ぜひ一度,加賀藩政時代の叡智の結晶に触れていただきたい。
今回,植物病理屋が虫塚について執筆することになったのは,石川県植物防疫協会発行の「石川県病害虫診断防除ハンドブック」の編集に携わった際,表紙に「埴田の虫塚」を用いるために,当センタ一生産環境部長(当時:病害虫防除室長)の東川博明氏に碑文の現代文訳を依頼したところ快諾され,通説であった「虫の菩提を弔う」に倣わず「害虫防除の大切さを肝に銘ずるため」という農業研究者らしい絶妙な意訳で問題提起されたことによる。氏の見識に敬意を表し,多くの示唆を与えていただいたことに深謝する。
また,資料をご提供いただいた小松市教育委員会の樫田誠氏,「天山」の位置の特定にあたって親切丁寧かつ迅速なリレーでご対応いただいた,埴田町町内会長・西野昭定氏はじめ小松市立国府公民館館長・山越隆氏,埴田町の池田勇氏ほか埴田町の方々に厚くお礼申し上げます。
1)愛知県北設楽郡東栄町振草古戸/発行 奥三河古戸の花祭 1965(「神々の里の形」より孫引き)
2)味岡伸太郎 神々の里の形 グラフィック社 2000
3)石川県/編 石川縣史第三編・藩治時代下石川県図書館協会 1974(昭和15年発行の復刻版)
4)石川県能美郡役所/編 石川県能美郡誌 石川県能美郡役所 1923
5)伊藤清司 サネモリ起源考 青土社 2001
6)大蔵永常 除蝗録(小西正泰・現代語訳)日本農書全集15 農文協 1977
7)岡本大二郎 虫獣除けの原風景 社団法人日本植物防疫協会 1992
8)北設楽郡花祭保存会 重要無形民俗文化財奥三河の花まつり 1977
9)北設楽郡花祭保存会 花祭語彙集 1981
10)国府村史編纂委員会/編 国府村史 国府村 1956
11)小松市教育委員会「埴田の虫塚」
12)新城南北設楽広域市町村圏協議会 奥三河の祭事記 新葉社 1995
13)竹内敏規 闇の日本史 特別企画展「花祭り」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/tv_hana.htm
14)田村市太郎 朝倉農芸新書11「稲作被害診断と対策」朝倉書店 1955
15)東栄町教育委員会/編 東栄町史・伝統芸能編 東栄町教育委員会 2004
16)平井一男 「ツマグロヨコバイ」の項 日本農業害虫大辞典 農文協 1998
17)平井一男 「トビイロウンカ」の項 日本農業害虫大辞典 農文協 1998
18)矢ケ崎孝雄 「国府村」の項 石川県大百科事典 北国出版社 1975
<1月号>
§自然環境変動と農業生産
チッソ旭肥料株式会社
副社長 佐藤 健
§トマトの葉先枯れ症軽減と窒素負荷軽減対策
~はくさい後の夏秋トマト栽培の事例~
北海道大野町野菜振興会とまと部会
(新函館農協大野支店)
渡島中部農業改良普及センター
専門普及員 山口 和彦
§肥料の常識・非常識(1)
越野 正義
§環境分解型被覆複合肥料を利用した茶園の施肥量削減
静岡県茶業試験場
主任研究員 望月 康秀
<2月号>
§環境にやさしい飼料作物の肥増管理
石川県畜産総合センター
技師 柴 教彰
(現 石川県農畜産課畜産係)
§セル内基肥によるキャベツの減窒素栽培
千葉県農業総合研究センター
北総園芸研究所 東総野菜研究窒
研究員 岩佐 博邦
§肥料の常識・非常識(2)
越野 正義
<3・4月合併号>
§水稲育苗に対する工コロング機械施肥の効果
(中苗箱マットについて)
北海道渡島支庁
渡島中部地区農業改良普及センター
専門普及員 田川 洋一
§水生作物:(3)
塊茎を利用する作物
ジザニア・水生植物研究会
会長 三枝 正彦
§肥料の常識・非常識(3)
越野 正義
<5月号>
§北前船交易と越中(富山県)の魚肥
富山県郷土史会
常任理事 前田 英雄
§北海道深川市における水稲老朽化苗床の実態と育苗箱施肥の事例について
北海道空知北部地区農業改良普及センター
専門普及員 近藤 睦
§肥料の常識・非常識(4)
越野 正義
<6月号>
§水生作物:(4)
水路雑草が美味菜,水質浄化の切り札に!
ジザニア・水生植物研究会
会長 三枝 正彦
§肥料の常識・非常識(5)
越野 正義
§トマト植物体内の硝酸濃度と異常茎との関係
千葉県指導農業士
千葉県農業大学校講師
若梅 健司
<7月号>
§植物栄養学の先達たち-1-
京都大学名誉教授
高橋 英一
§肥料の常識・非常識(6)
越野 正義
§鳥取県におけるマイク口ロングを利用したネギのセル成型育苗法
鳥取県園芸試験場 弓浜砂丘地分場
研究員 白岩 裕隆
<8月号>
§植物栄養学の先達たち-2-
テオドール・ド・ソシュール
-植物生理学の基礎を築いたスイスの化学者-
京都大学名誉教授
高橋 英一
§レタスにおけるマルチ2作穫施肥技術について
JAあわじ島榎列支所
営農主任 三木 浩介
§肥料の常識・非常識(7)
越野 正義
<9月号>
§植物栄養学の先達たち-3-
ジャン・バプチスト・ブサンゴー
-圃場試験を創始したフランスの農芸化学者-
京都大学名誉教授
高橋 英一
§マット植物の生産及び利用技術
千葉県農業総合研究センタ一生産技術部
花き緑化研究室
柴田 忠裕
<10月号>
§植物栄養学の先達たち-4-
ユストウス・フォン・リービヒ
-自然界における物質循環の思想の種を播いたドイツの有機化学者-
京都大学名誉教授
高橋 英一
§有機質肥料で生産された野菜と化学肥料で生産された野菜の判別技術
有機農産物を見分ける指標としての窒素安定同位体比の利用
農林水産省 農林水産技術会議事務局
研究調査官 中野 明正
(元)(独)農研機構 野菜茶業研究所 環境制御研究室
上原 洋一
<11月号>
§植物栄養学の先達たち-5-
ジョン・ベネット・ローズ
-農業近代化に生涯を捧げたイギリスの一地主-
京都大学名誉教授
高橋 英一
§肥効調節型肥料を用いたイチゴの低コスト高設ベンチ全量基肥栽培技術
<前編:空中採苗ベンチにおける子苗生産>
栃木県農業試験場 栃木分場
いちご研究室
技師 畠山 昭嗣
§旧加賀藩政時代の虫塚から学ぶこと(前編)
石川県農業総合研究センター
生産環境部 病理昆虫科
農業研究専門員 森川 千春
<12月号>
§植物栄養学の先達たち-6-
ウォーリントン親子と口ザムステッド
京都大学名誉教授
高橋 英一
§西南暖地の代かき同時土中点播栽培における肥効調節型肥料を用いた省力施肥技術
九州沖縄農業研究センター
水田作研究部 水田土壌管理研究室
室長 土屋 一成
§肥料の常識・非常識(8)
越野 正義
§旧加賀藩政時代の虫塚から学ぶこと(後編)
石川県農業総合研究センター
生産環境部 病理昆虫科
農業研究専門員 森川 千春
§2004年本誌既刊総目次