§変革の時代における肥料の役割
チッソ旭肥料株式会社
常務取締役 浜園 佳文
§復田時の水稲不耕起・無代かき栽培における育苗箱全量施肥
秋田県農業試験場 大潟農場
研究員 進藤 勇人
§旧加賀藩政時代の虫塚から学ぶこと(続編・その2)
石川県農業総合研究センター
資源加工研究部 生物資源グループ
専門研究員 森川 千春
§茶園におけるポーラス肥料の寒肥・春肥・芽出し肥としての施用効果
チッソ旭肥料(株) 富士営業所
技術顧問 岩橋 光育
チッソ旭肥料株式会社
常務取締役 浜園 佳文

新年明けましておめでとうございます。
平成18年の年頭にあたり日頃よりご愛読頂いております皆様方のご多幸とご繁栄をお祈り申し上げます。
昨年,日本経済は「郵政民営化」「政府金融機関の統廃合」等の変革の流れの中で回復基調を示してきました。
農業生産においては,台風の上陸は少なかったものの一部地域では水害、酷暑、早魃等々影響も少なからずありました。被災された皆様方には心よりお見舞いを申し上げます。
さて,弊社の両・親会社の創業者である「野口遵翁」が,九州の地で水と空気を原料として我が国最初のカザレ一法アンモニア合成に成功したのが大正12年でありました。
爾来80年余り,現在世界では,天然ガス,LPG,ナフサ等を原料としてアンモニアを製造しております。
昨年は,アメリカの数度に亘るハリケーンの影響で天然ガスも逼迫し,また米国でのエタノール用トウモロコシの増産,インドの食料増産等でアンモニアの需給は逼迫しており,今後もこの騰勢は続くものと思われます。一方では,鳥インフルエンザの流行→鶏の処分→飼料の滅→トウモロコシ余剰と影響も複雑且つグローバルになってきています。
更には,原油の高騰からくる各種資材の高騰,燐鉱石,加里から微量要素に至るまでの天然資源の騰勢は未だ例を見ない程です。
一方,日本の農業情勢は一段と厳しい状況にあります。
こういう中で貴重な天然資源を知何に効率的に有効に農業生産に寄与させていくのかが私共肥料に携わるものの命題ではないだろうか,と考えております。
弊社は上述の要請にも合致した,コーティング肥料「LPコート®」「ロング®」を早くから開発・販売して参りました。
関係諸先生から農家の皆様に至るまで,多くの方々の応援を頂戴し,現場での普及と溶出制御技術の向上に努めて参りました。今後も皆様のご要望に応じるべく更なる向上に力を注いで参りたいと存じます。
弊社は,前述のコーティング肥料の他に,肥効調節型緩効性窒素肥料「ハイパーCDU®」,緩効性窒素肥料「CDU®」,速効性泡状高度化成肥料「あさひポーラス®」,打ち込み型根圏施肥肥料「グリーンパイル®」,「ロングパイル®」,硝酸系
高度化成肥料「燐硝安加里®」,高性能育苗培土「与作®」など機能性を重視した肥料・農業資材をお届けさせて頂いております。又,昨年末には,「あさひブリケット®」も新規に上市致しました。皆様方には,今後とも一層のご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。
本誌「農業と科学」も内容の充実を更に図って参りますので,本年も益々のご愛読を賜りますようにお願い申し上げて,新年のご挨拶とさせて頂きます。
秋田県農業試験場 大潟農場
研究員 進藤 勇人
排水不良の重粘土水田における水稲不耕起移植栽培は,代かきを行わないため,代かき栽培のように作土が強還元状態にならず,生育後半まで根が健全で秋まさり的生育を示すのが特徴である。また,土壌構造が維持されることで圃場の地耐力が増し,畑転換後は排水性,砕土性に優れ,畑作物が安定生産できることが明らかにされている。無代かき移植栽培は,不耕起栽培ほどではないが,同様の効果が得られる重粘土水田に適した栽培法である。不耕起栽培では施肥効率が悪いことが問題であったが,育苗箱全量施肥法の開発により肥料の利用率が70~80% に向上し,省力化され,現在,不耕起,無代かき栽培は,大潟村で300ha程度で導入されている。
一方,近年環境に対する意識の高まりから,八郎湖の水質悪化が問題視されており,水質汚濁負荷を低減するための技術開発,普及が急務である。水田作における水質汚濁負荷の大部分は代かき~移植までに発生することから,代かきをしない不耕起栽培や無代かき栽培は,水質汚濁負荷を低減できることが明らかにされている。これらのことから,不耕起栽培や無代かき栽培を田畑輪換体系に導入することで畑作物や水稲を安定生産できかつ,水質汚濁負荷を低減できると考えられる。
復元田の代かき栽培では,復田後3年間程度土壌窒素発現量の増加,根城の拡大,根活力の向上などにより水稲生育が旺盛になるので,復田年数に応じて20~100%の減肥や倒伏に強い品種を作付けすることが指導されているが,不耕起栽培や無代かき栽培水稲の生育特性については十分に検討されていない。
そこで,復田時に育苗箱全量施肥による不耕起及び無代かき移植栽培を行う場合の適正施肥量を明らかにすることを目的とし,土壌窒素供給量,水稲の窒素吸収特性及び収量について検討した。あわせて,水質汚濁負荷低減効果についても検討した。
試験は,2000~2003年に八郎潟干拓地に位置する秋田県農業試験場大潟農場圃場(土壌条件:細粒質斑鉄型グライ低地土,強粘質)で実施した。試験には2000年,2001年に復田した6圃場を供試した。復田後の耕起,移植法は,①代かき3年連続,②無代かき3年連続,③1年目無代かき+2年目以降不耕起の3体系である。また,復田前の転換畑作物は,スイートコーン2年連作,エダマメ2年連作及びキャベツ1年である。
本圃場における水田連作時の育苗箱全量施肥による慣行施肥量は0.5kgN/aであり,復田時の適正施肥量を検討するため,50,100%減肥区と耕起・移植法を組み合わせて試験区を設定した。育苗箱全量施肥には苗箱まかせN400-100(シグモイド溶出型被覆尿素100日タイプ)を,全層施肥には硫安を用い,リン酸及びカリウムは施用しなかった。品種は「あきたこまち」である。
まず,最も土壌の乾燥の影響が大きい復田1年目の無代かき栽培における作土の土壌窒素発現量を検討するため,培養実験により可給態窒素(30℃,4週間)を測定した。培養は,無代かきを想定してコアで採土し,そのまま土塊を崩さず行った(未かく乱培養)。その結果,未かく乱培養による可給態窒素量は,かく乱培養(代かきを想定)に比べ低いことから,復田時の無代かき栽培水稲の作土からの窒素供給量は,代かきと比べ少なくなることが示唆された(図1)。

次に,実際に水稲が吸収する地力窒素変化を検討するために,無施肥で水稲を栽培し,窒素吸収パターンを調査した。復田1年目の無施肥無代かき栽培水稲の窒素吸収量は,代かきに比べ生育期間を通じて低く推移した。また,復田2年目以降の不耕起,無代かき栽培では,復田年数とともに代かき栽培に近づく傾向であった(図2)。これは,復田年数の経過とともに,特に代かき栽培で土壌が還元的となり,根城が減少し,水稲が吸収できる地力窒素が少なくなるためと考えられた。

復田1年目の無施肥無代かき水稲の土壌由来窒素吸収量は,幼穂形成期,成熟期いずれのステージにおいても,無施肥の代かき水稲(復田1年目の代かき栽培の慣行)に比べ少ないが,0.25~0.5kgN/a育苗箱全量施肥することで,土壌由来窒素吸収量の不足分を補い,代かきと同等以上の窒素吸収量と収量が得られた(図3,4) 。しかし,施肥量が0.5kgN/aの場合は倒伏程度が大きくなることから,連作水田の慣行施肥量の半量である0.25kgN/aが適正施肥量と考えられた。


復田2年目の不耕起,無代かき栽培では,0.5kgN/a育苗箱全量施肥することで,いずれのステージにおいても全層施肥0.5kgN/aの代かき栽培と同等以上の窒素吸収量が得られた(図3)。また復田2年目以降では,連作水田の慣行施肥量である0.5kgN/a育苗箱全量施肥することで,倒伏も少なく,目標収量(57kg/a)が確保できた(図4)。
復田後3年間,水稲栽培期間中の水質汚濁物質の差引排出量について耕起方法の影響を検討した(図5)。不耕起,無代かき栽培における懸濁物質の差引排出量は,復田3年間とも代かき栽培に比べ低く,差引排出量がマイナスであることから水質を浄化しており,代かき時の濁水を排出しないことによるものであった。また,有機炭素,全窒素,全リンも,復田3年目の不耕起栽培を除き,同等かそれ以下であった。不耕起栽培は,連作すると漏水量が増加する傾向があり,復田3年目(試験年次2003年は低温年)の不耕起栽培の差引排出量の増加は,冷害回避のために7月中旬に深水管理したことにより他の区に比べ灌水量,漏水量が増加したことと,表層の稲わらの分解による田面水の有機炭素,全窒素,全リン濃度の上昇によるものと考えられた。

このように,不耕起,無代かき栽培は復元田においても水質汚濁負荷が減少することから,代かき濁水を出さないことによる安定した水質保全効果があるといえよう。
不耕起,無代かき栽培を復元田に導入する場合,けい畔漏水が増加することやいかに圃場の均平をとるかなどの問題点が残されているが,けい畔周辺だけを代かきするいわゆる額縁代かきやレーザー均平装置を利用するなどで対応可能である。
排水不良の重粘土水田では,不耕起,無代かき栽培を田畑輪換体系に導入することでその特性を十分に発揮できると考えられ,本報で報告した水稲の窒素吸収特性や施肥指標を活用して項きたい。安定した水質保全効果があり,省力的な育苗箱全量施肥による不耕起,無代かき栽培が,水田作における環境保全型安定生産技術の一翼を担うことを期待している。
1)進藤勇人ら(2004)
復田時の水稲不耕起・無代かき移植栽培における育苗箱全量施肥,東北農業研究,57巻,25~26
2)金田吉弘(1993)
八郎潟干拓地低湿重粘土における田畑輪換効果の解明と水稲安定多収技術に関する研究,秋田農試研報,33号
3)太田健ら(2001)
不耕起および無代かき移植水稲栽培による畑地化の維持効果,土肥誌,72巻,797~802
4)太田健(2001)
不耕起および無代かき移植水稲栽培による水質浄化,大潟村の新しい水田農法, 203~208,農山漁村文化協会
5)原田久富美ら(2004)
復田時の不耕起,無代かき移植栽培における水質汚濁物質負荷の特徴,共通基盤研究成果情報
6)原田久富美ら(2004)
農家実態調査に基づく水稲移植前落水時の水質汚濁負荷量の推定と低減方策,共通基盤研究成果情報
石川県農業総合研究センター
資源加工研究部 生物資源グループ
専門研究員 森川 千春
陰陽道とは古代中国に発生した陰陽五行説を中心とする思想と技術であり,天体の運行と人間社会の移り変わりが関係し合う(天人相感)とし,吉凶を天文の変化から予知し対処するものである54,56)。わが国においては律令制にとり入れられ55),天武天皇(在位673~686年)により設置された陰陽寮は39,56),天文,暦,気象,卜占(占い),相地(土地の吉凶を判断する),漏刻(水時計)などを掌った56)。九世紀中頃から史料に現われる陰陽道祭祀は,蝗害を防ぎ,疫癘(疫病)をはらい,五穀豊穣を祈念する公的祭祀(高山祭,鬼気祭,雷公祭など)が中心であった60)。
「三代実録」貞観元年(859年)八月には,「董仲舒祭法」に基づき「螟螣賊害五穀之時…解之攘之(螟螣賊,五穀を害するのとき…これを解きこれを攘う)」とある14,45)。董仲舒は前漢の儒家で,経学と陰陽五行説を結びつけ天人相感の思想を大成した人物である60)。「除蝗録」12)の記述によると「螟」は「イナゴ」,「螣」は「実盛虫」すなわちウンカ・ヨコバイ,「賊」は「小形で節を食い穂を枯らす」すなわちニカメイチュウであろうと思われる。
その後,次第に貴族個々の攘災・延命を目的とした祭祀が行われるようになるが60),いわゆる宮廷陰陽道は平氏全盛から没落期にかけ天文の変異から政界の動向を占った陰陽頭・安倍泰親の頃を頂点とする55)。令制では「天文密奏」の制度があり,陰陽寮の天文博士は,天体の変異を直接天皇に奏上する定めであった42)。
中世になると宮廷陰陽師は武家奉仕と公家奉仕に分裂し,あるいは民間に四散し,陰陽道は社会の広域に及ぶことになる21)。宿曜道や密教との交渉が盛んとなり,修験道の要素も渾然一体となり中世的な習合宗教となっていった57)。陰陽師の中には,武家奉仕のために京の都を捨てるもの,有力社寺ヘ身を寄せるもの,職田などがあるゆかりの地ヘ下るもの,放浪するものなどが出て「陰陽師の田舎わたらい」と称された17)。
宮廷陰陽道を支えてきた賀茂・安倍の両家のうち,賀茂家は永禄八年(1585年)賀茂在富の死によって絶え,安倍(土御門)家も秀吉の勘気に触れて(秀頼を呪誼したともいわれる18))一時追放される。秀吉は「陰陽道は国家を犯道也,治平の世にハ不益の物也」と言ったとされ18),この処分は土御門家のみにとどまらなかった。陰陽師はことごとく職を取り上げられ(陰陽道闕職),尾張国の荒地の開墾へと駆り出された18)。
関ヶ原合戦後,土御門家は宮廷出仕を再開し17),近世には安倍晴明の末裔という土御門家を宗家とする神道的形態の「天社土御門神道」の体制となった21)。陰陽師は,古くは術者としての神秘性から「見鬼者45)」(鬼を見る者)とされ,後にはその技術面から「司天輩16)」(天を司る輩)と呼ばれた。
十村役・田中家に「鬼一法眼末裔之由代々伝承仕候」27)と伝わる「鬼一法眼」は「陰陽師の法師40)」(法師陰陽師・民間陰陽師)である。正確無比な計算で大和比を用いた,虫の俵の配分・石碑の高さ・碑文・石碑の配置には「算置」とも呼ばれ荒地の開墾にも利用されたという陰陽師の測量技術18)があらわれている。域内への侵入路を遮断する形の「結界による除災」は陰陽道の「疫神祭」(道と堺の祭)12)の流れをくむものであろう。東西南北に正対した四辺形に設定された戌亥(西北)と辰巳(東南)の「方位除け」は「四角祭」(京城の四隅,すなわち,乾・艮・巽・坤で疫鬼の侵入を防ぐ)を想起させる14,26)。
田中家の系図には「石川郡山嶋の郷宮丸村ニ往昔鬼一道場ト申有之 則チ鬼一法眼末孫・有故宮丸村ニ止リ」27)とあり,鬼一法眼の末商が「故有り」山嶋郷宮丸村(旧・松任市:現・白山市宮丸町)にとどまり鬼一道場を開いていた。「故有り」は前述の「陰陽師の田舎わたらい」や「陰陽道闕職」だったかもしれない。
田中家は陰陽師であり,本当に鬼一法眼の末裔だったと推定したい。この前提で虫塚の立地環境を見ると多くのことが繋がってくるのである。
徳橋神社は元「稲荷社」であった27)。安倍晴明の母親が信太森葛葉稲荷神社(大阪府和泉市葛ノ葉町)の白狐・葛の葉53)とされるように陰陽師と稲荷は密接な関連がある。旧国府村地内二十二社のうち稲荷神を祀るのは,この埴田のひとつだけである27)。陰陽師の系譜を有する者が徳橋組に移住するにはまさにここ埴田しかない。
鬼一法眼は「鬼一法眼社」として「鞍馬寺」境内に祀られている。そして「鞍馬寺」を模して坂上田村麻呂が建立した「西光寺」(達谷ヶ窟)が奥州平泉にある1)。奥州平泉中尊寺には一山の鎮守として「白山社」(白山権現社)があり2,3),江戸期に別当として白山の山上諸社を管理していたのは越前勝山の「白山平泉寺」であった11)。越前平泉寺縣社白山神社由緒略記47)には「源九郎判官義經が北國落には平泉寺觀音堂に宿り,管絃の妙にて衆徒の心を和げ」ともあり,奥州平泉と越前平泉寺の密接な関係が浮かび上がる。
また,「白山記」には、藤原秀衡が白山頂上の社殿に身の丈五尺の金銅像を鋳造して寄進したとあり,しかもこれは秀衡在世中に書かれた記事である38)。白山信仰を通して,徳橋組でも奥州・西光寺の情報は有していたはずである。岩渕の「西光寺跡」を鞍馬寺ゆかりの地,そして父祖や陰陽師ゆかりの地と認識したのではないだろうか。
引越十村として「稲荷社」のある「埴田」への転入,「西光寺」跡への「岩渕の虫塚」の建立,ともに偶然ではなく故意・作為的にピンポイントで選定された気配がある。
それでは「花祭り」と陰陽道の関係はどうであろうか。「花祭り」は里神楽の中の舞型神楽,さらにその中の湯立神楽(霜月神楽)に属する41)。西角井は「神学研究」で,里神楽において陰陽五行の所作のない処はなく,その養成・発達の過程を理解するには陰陽道に過ぎないとして目を背けるべきではない54),とした。村山54)はこれを受け「陰陽五行思想抜きで里神楽が考えられなくなったのは,これが法師陰陽師たる修験者の長きにわたる歴史的な管掌のあとを物語るものである」と述べている。
舞の基本54)とされる五方(東西南北中央),順逆順(天地人左右左),反閇(大地を踏みしめ清める),契印(指で印を結ぶ),九字壷きり(臨兵闘者皆陣列在前),などは,すべて「花祭り」の中に見られる41)。舞人が舞台を対角線にあるいは十字形に動き回るのは,陰陽道における北極星祭・太一神祭・九曜祭・五星祭・七十二星祭から来たものであろうと論じられている54)が,これも「花祭り」の「地堅」の舞に見られる5)。
「花祭り」は牛頭天王信仰も取り入れている。「花祭り」は拍子や舞式の相違から「大入系」と「振草系」に分けられるが,より古式をとどめるものの現在,廃絶している「大入花祭り」には「牛頭天王嶋渡」「牛頭天王五段式」の祭文が伝えられている41)。祇国社(八坂神社)の祭神・牛頭天王は,宮廷陰陽道の形骸化と,世俗陰陽道の進出の過程で陰陽道に取り入れられていき,十四世紀には安倍晴明の選(実際の著者は祇園社の社僧・晴朝)とする陰陽道の聖典「三國相伝陰陽輨轄簠簋内傳金烏玉兎集」の中核をなすものになり,晴明の名を持って権威付けられた54)。
神楽行事は民族的な土公祭と結びつくことによって一段と陰陽道的要素を強めることがある54)。土公神は竈神である荒神と習合し,「花祭り」にも「荒神祭り」が入っている41)。備後国神石郡豊松の土公祭の五行祭文には五方(東西南北中央)にあてて「東方久々能知命は青き御籏を」「南方火具土命は赤き御籏を」「西方金山彦命は白き御籏を」「北方水波女命は黒き御籏を」「中央埴安彦命は黄なる御籏を」と方位神と五色を配当し54),「中央」に「埴」の字が見える。五行の木火土金水のうち,五方の「中央」にあてられるのは「土」で,埴安彦命は「土祖」あるいは「土神将軍」ともされる54)。
五行についての最初の記載である「尚書」の「洪範篇」には「水は潤下となし,火は炎上となし,木は曲直となし,金は従革となし,土は稼穡となす」とある43)。「稼穡」は「穀物の植えつけと取り入れ」。「土」と「田」は容易に結びつく。陰陽師の末裔が「埴」「田」を移住地とした理由がここにもありそうだ。「埴田」とは「土祖・埴安彦命」のイニシャル表記のようなもの,五行の「中央」の意につらなるものと考えられる。
さらに,上の引用に続くのが「潤下は醎と作し,炎上は苦と作し,曲直は酸と作し,従革は辛と作し,稼穡は甘と作す」43)で,五味を配当している。埴田では米のランク付けを「赤→白→黄」とし「黄」を最も良いものとしていた(埴田町・池田勇氏談)。これに五味を割りふると「苦→辛→甘」となる。良い米は甘い。醎(しおからい)と酸はいわば保存食の味,新米に用いるべき評価ではないだろう。これも陰陽五行思想による統治のなごりではないか。
虫塚と関連した社寺の配置,そして「花祭り」をはじめとした里神楽との関係をみていくと,田中家のルーツは陰陽師(それも名実ともに高位のもの)であり,虫塚は陰陽道に基づき建立されたと考えられる。
埴田の属していた旧村・国府村は平安期に加賀国府が置かれたことに由来する27)。律令政府は必要な国に陰陽師を配置した模様であるが36),加賀に陰陽師が配置された記録はない。しかし加賀国府推定地から西約1.5kmもある漆町遺跡から「天罡(北斗七星のこと)」「急々如律令」の語句のある,平安後期の木簡が出土している51)。これらの語句は陰陽師によって用いられたものであり15,51),平安期に加賀国府周辺で陰陽師の活動があったことを示す。埴田は古くより陰陽師の活動拠点だったと思われる。
田中家が陰陽師であったとすると,ひとつ面白い物語ができあがる。埴田村勘兵衛が十村役を努める勘兵衛組に,引越十村の田中家初代・所平が移り住んだのは「部落の南方天山の地」27)であった。天山は,明治42年,皇太子(大正天皇)の北陸行啓記念事業としての耕地整理で切り崩され「常に水付きの下向きの田に客土」された27)。「天山」は村はずれの「水付き(水害)の地」にあった(続編その1 ・図2参照)。引越十村として選ばれたものが入るような場所ではない。国府村史には「田中家の系統によると,初代所平なる人が天山に居を構え,その子半兵衛に十村役を司らしめた」27)とある。田中家初代・所平は追諡(死後に称号を贈ること)ではないのか?つまり,所平は十村ではなく,陰陽師として「稲荷社」があり,「陰陽五行の中心」地たる「埴田」に移り住み,そこで数々の「験」をあげた。それは農耕に関する暦を主とし,時には日蝕予言もあったであろう。しかる後に村人の信頼を得て,子・半兵衛を十村としたのではないか。
所平の就役は正保の頃(1644年),半兵衛は貞享の頃(1684年)とされる27)。通常世襲されるべき十村家が交代する原因となった大きな「験」を上げる「何か」が半兵衛就役直前にあったはずだ。天文マニアの方はすぐにピーン!と来たであろう。1682 年のハレー琴星。ハレーが軌道計算をして1531年と1607年と1682年のものが同じと判断し,次の1758年末~1759年初めの回帰を予測した琴星である46)。
1607年の記録は陰陽道宗家たる土御門家「家秘要録」に「丑時彗星出現艮其長八尺白色也」とある46)。古記録に見られる彗星尾の長さの単位・ー尺は1.5度に相当する(星間距離については一尺=1.0度)29)。1.5度×8(尺)=12度の長さであった。1682年のものは「百弌録」に見られる「星有白気気光従西指東長一丈余」の記述46)。一丈=十尺であるから,1.5度×10(尺)=15度の長さであった。
星空の異変はこれだけではなかった。ハレー彗星の2年前,1680年に巨大彗星が出現した46)。周期は575年(ハレー),8800年(エンケ)とも推定されており,我々がこの彗星を見ることはないが,尾の長さは70度にも達したと伝えられ,我国でも多くの記録が残っている46)。「続史愚抄」には「長五丈余」46),すなわち1.5度×50(尺)=75度とある。言うまでもないが,水平線から天頂までが90度。75度の尾はとてつもなく大きい。
半兵衛就役直前の二つの大彗星,これに陰陽師の天文知識をもって対処すれば十村家交代に十分なインパクトとなったはずである。これよりはるか昔の陰陽寮成立以前,舒明天皇(在位629~641年)に陰陽道の知見を提供した僧旻は,舒明天皇十一年(639年)の長星出現に「彗星なり,見ゆればすなわち飢す」39)と予言した。彗星は飢饉の予兆であったのだ。
天保飢饉のただなか,天保6年(1835年)には十村・田中家にとっての3回目のハレー彗星が来た。幕府天文方の観測もあったが,加賀藩士・寺西秀周が当時の最新式器具で観測し,渋川春海(幕府初代天文職)の星図「天文成象図」を用いて,うしかい座からかんむり座,ヘびつかい座を通ってゆくハレー彗星を記している25)。老齢の父・清作の補佐に当たっていた三郎衛門はいかなる対応をしたのであろうか。家伝の知識・記録に最新の科学的知見も加え,彗星の来訪も消滅も完璧に予言したかもしれない。屋上屋の空想であるが有り得そうな話に思えてくるのである。
さらにこの空想に基づくと「田中家による徳橋組支配」と「土御門家による諸国陰陽師支配」を対比させることができる。
近世に陰陽頭を代々つとめ宮廷陰陽道の中心であった土御門家が,霊元天皇の綸旨と将軍家綱の朱印状により,諸国の陰陽師支配に乗り出したのが天和三年(1683年)17)。土御門家にとっては財政の確保が目的であるが(造暦権を幕府天文方に渡す反対給付ともいわれる19)),諸国の陰陽師にとっては身分の政治的公認への第一歩であった。
いっぽう,徳橋組二代十村役(田中家初代)所平を追諡とすると,田中家による徳橋組の実質的支配は三代十村役(田中家二代)半兵衛の就役,すなわち「貞享の頃27)」(1684年頃)に始まり,双方の時期が一致する。このとき陰陽家触頭(地域陰陽師の筆頭者)の許状が発行された記録は摂津・河内・尾張・備中・江戸にとどまっているが34),土御門家は,応仁の乱(1467~1477年)以降の経済的困窮から所領の若狭国名田庄(現・福井県遠敷郡名田庄村)に在住することが多く22),また,文明十八年(1486年)には所領の越中二上庄(現・富山県高岡市伏木)の年貢を加賀の本願寺門徒に抑留されたと成敗を求めており20),北陸方面への関わり,影響力は強かったとも考えられる。
天明三年(1783年),徳橋組四代十村役(田中家三代)田中所平のあと,五代十村役は田中家ではなく若杉村八郎兵衛へと引き継がれた27)。所平の子・半二(後に六代十村役となる)幼少のため,という理由27)であったがはたしてそれだけであろうか?四代・所平の就役期間は歴代の中でも際立って長く67年間におよぶ。元服と同時の就役としても80歳に達していたはずだ。その子が幼少というのはあまりにも不自然ではないか?7年後に六代十村役に就役した半二はわずか8年間の就役で世を去っている27)。幼少どころか老壮期に達していたのではないか?
土御門家が,陰陽師新規参入者獲得のための職分改めである「陰陽道改め」を強化したと思われるのが天明四年(1784年)21)。徳橋組において天明四年は疫病の大流行と大飢饉の年にあたる27)。多くの餓死者も出した年,「陰陽道改め」による貢納金を回避し,領内の救済復興を優先させるために「その前年・天明三年から陰陽師ではない他家ヘ十村が移っている」との方便を用いたのではないか。「鬼一法眼」の末裔を自ら名乗れば,陰陽道改めを逃れることはできない。版本として流布していた「義経記」40)に「陰陽師の法師」と明記されているのだ。しかも名主・大庄屋に相当する十村役では,触頭クラスとなり貢納金もきわめて高額となったであろう。統治責任者として”名を捨て実をとる”苦悩も垣間見えてくる。
寛政三年(1791年)幕府が,この陰陽師支配についての触流しを行い,全国に陰陽家触頭がおかれ,土御門家による民間陰陽師支配が確立するとともに,陰陽師の身分に政治的公認が与えられた62)。これと相前後するかのように,寛政二年(1790年)六代十村役(田中家四代)田中半二が就役し,田中家ヘ十村役がもどっている27)。
田中家の動きは全て土御門家にシンクロしているように思えてくる。「二つの大彗星出現に端を発した田中家による徳橋組支配は,疫病と大飢饉を乗り越え,陰陽師の政治的公認の流れに乗って確立されて行った」というストーリーも考えられるのだ。
虫塚と陰陽道の関係について,かなり飛躍した空想も交えながら白論の展開を試みた。次回(続編・その3)では,さらに古代方位信仰や修験道との関連を考察したのち,虫塚建立前後の出来事について概観し締めくくりとしたい。
<引用文献は,(続編・その3)に一括掲載します>
チッソ旭肥料(株) 富士営業所
技術顧問 岩橋 光育
静岡県では施肥窒素の溶脱による周辺水系の汚染防止を目的に2002年3月施肥基準を改定し年間窒素施用量の上限を54kg/10aに改定,さらに2005年3月の改定では2010年までに40kg/10aを達成することを目標とする旨明記された。一方,施肥量削減に伴い県内JAの施肥設計では春肥・芽出し肥への重点化(平均で年間窒素の50%)と秋肥の施肥量の削減(同19%で窒素約10kg/10a)が顕著となっている。
また,この数年,秋肥施用後の県内での降水量が増加(牧の原のアメダスデータで8~11月平年降水量820mmに対し2003年1,162mm,2004年1,695mm)しており,降水による養分の溶脱が懸念された。著者らが2004年12月茶園のうね間土壌の分析(62ほ場)を行った結果,無機態窒素が平均5.9g/100g(2.2~9.4mg)と少なく冬期の土壌中での養分が例年に比べ少ないことが認められた。
このように近年の秋肥窒素施用量の削減化,秋肥施用後の集中的な降雨などにより翌年春期の最初に吸収されるべき根の周りの冬期の土壌中無機態窒素の不足,それに伴う一番茶への吸収の遅れと不足が懸念される茶園が少なくないと推測された。
’あさひVポーラス’(以下,ポーラスと称す)は資材の特性上水に溶けやすく,かつ硝酸態窒素を含有しているため降雨による土壌中下層への移動が速く,茶園における速効性の肥料として利用されている。
そこで今回,即効性を生かしたポーラスの寒肥,春肥及び芽出し肥としての施用が茶樹の一番茶新芽の生育,収量及び品質に及ぼす効果を確認することを目的に試験を行ったので報告する。
試験場所は掛川市大野(褐色森林土),菊川市倉沢(赤黄色士),川根本町(レキ質土),静岡市水見色(褐色森林土)及び富士市石坂(黒ボク土)の5試験ほ場で実施した。いずれも’やぶきた’成木園で試験は2005年に行った。
試験区の構成は表1に示したとおりであり,寒肥(ポーラス)施用区,春肥Ⅰのみポーラス施用区,芽出し肥のみポーラス施用区及び慣行区の4区を設けた。

使用した肥料は’あさひVポーラス’(窒素・リン酸・加里:16(アンモニア態窒素13.5,硝酸態窒素2.5)-7-12)と各試験ほ場で慣行的に施用されている肥料を使用した。寒肥(1月初中旬,窒素7kg/10a)以外の施用時期,施用量は農家慣行に準じ,処理区の規模は1区14~31㎡の範囲で反復は採らなかった。
調査項目は一番茶収穫時に枠摘み調査(20×20cm,1区6ヶ所)を行い,新芽は乾燥後,近赤外分光光度計による測定(全窒素,遊離アミノ酸,テアニン,粗繊維,タンニン,カフェイン)を行った。また,月一回うね間土壌(深さ10~20cm)を採取し無機態窒素を分析した。
表2に一番茶新芽の生育調査結果を示した。新芽重は慣行区100に対し寒肥(ポーラス)区は各試験ほ場平均で110と高い値を示し,以下,春肥Ⅰ(ポーラス)区107,芽出し肥(ポーラス)区104であった。新芽数,摘芽長でも寒肥(ポーラス)区が最も高い値を示し,春肥Ⅰ(ポーラス)区,芽出し肥(ポーラス)区でもポーラス施用に伴い慣行区に比べ増加する傾向が認められた。百芽重では逆に慣行区の値が最も大きくなる傾向が認められた。小西ら1)は秋期,冬期,早春期,春期のアンモニア態窒素の施用による一番茶新芽への移行などを検討し,早春期施用の窒素が他の施用期に比較し,一番茶新芽の生育に大きく貢献することを認めている。今回の試験結果でも寒肥,春肥Ⅰ肥,芽出し肥で早めの施用と速効性肥料であるポーラス施用の効果が同様に認められた。

出開度は慣行区100に対して平均で寒肥(ポーラス)区120,春肥Ⅰ(ポーラス)区110,芽出し肥(ポーラス)区109といずれもポーラス施用に伴い出開度が高まる傾向が認められた。簗瀬ら2)は一番茶新芽の形質と摘採日との関連を明らかにし,出開度20~60%の新芽生育ステージでは出開度は1日で6~7%程度,出開度60~80%の生育ステージでは出開度は1日で4~5%程度進むことを報告しており,このことを考慮するとポーラス施用により慣行区に比べて1~2日程度早めの摘採が可能と考えられる。
図1に推定生葉収量を示した。なお,推定生葉収量は枠摘み新芽重,摘採面幅及びうね幅から試算を行った。いずれの試験ほ場においても10a当りの生葉収量が最も高いのは寒肥(ポーラス)施用区であり慣行区にくらべ39~78kg/10a(平均56kg)ほど多く,次に春肥Ⅰ(ポーラス)区,芽出し肥(ポーラス)区,慣行区の順でありポーラス施用による生葉の増収効果が認められた。

表3に一番茶新芽の成分分析結果を示した。各成分共に処理区間で一定の傾向が認められなかったが,一部ポーラス施用区の全窒素で慣行区に比べて値の低下が認められた。これは慣行区に比べポーラス施用区の新芽生育が良好であることに伴う生育希釈に起因するものと考えられる。

図2に各試験ほ場の中で平均的推移が見られた川根本町ほ場での土壌中無機態窒素の推移を示した。各試験ほ場共にうね間の深さ10~20cmにおける無機態窒素の最も早い増加が認められるのは,1月初中旬に施用した寒肥(ポーラス)区であり,2月下旬になると慣行区に比べ4~8mg/100g程度の増加が認められ,以後3月,4月でも他の処理区に比べて高く推移する傾向が認められた。次に早い無機態窒素の増加が認められたのは春肥Ⅰ(ポーラス)区で3月下旬に慣行区に比べ5~11mg程度,芽出し肥(ポーラス)区では4月下旬に慣行区に比べ4~10mg程度高くなった。

このようにポーラスを施用することにより寒肥(ポーラス)区はもちろん春肥Ⅰ(ポーラス)区,芽出し肥(ポーラス)区でも施用1ヶ月後には慣行区に比べ無機態窒素の値が高く推移することが認められた。
中村3)はポーラスの芽出し肥試験でポーラス施用区の無機態窒素が硫安区に比べて高い値を示す頃向があることを認めている。本試験においてもほぼ同様な傾向を示した。
表4にポーラス肥料使用に伴うポーラス投資効果試算を示した。試算にあたり生葉価格は470円/kg,寒肥の散布作業賃金は3,500 円/1回/10aとした。寒肥(ポーラス)の施用効果を見ると,各試験ほ場での10a当りの生葉売上高は慣行区に比べ18,330~36,660円増(平均26,405円),肥料代を差し引いても13,820~31,924円増(平均21,821円),さらに散布作業賃金を差し引いても10,320~28,424円(平均18,321円)の収入増となった。

一方,春肥Ⅰ(ポーラス)区は慣行区に比べ肥料代を差し引いても24,678~29,581円(平均27,208円)の収入増となった。これは春肥Ⅰ(ポーラス)区の肥料代(平均7,841円)が各試験ほ場の慣行である春肥Ⅰ(配合)区の肥料代(平均13,272円)に比べかなり低価格であることに起因する。
芽出し肥(ポーラス)区は肥料代を差し引いても4,044~9,340円(平均7,850円)の収入増となった。一般に摘採の適期は出開度70%程度(佐波4))とされているが,今回の各試験ほ場での生育調査時の出開度が15~70%とほ場間の差が大きく,前倒しで調査を行ったことを考慮すると,各ほ場での現場実態では収量,収入ともに更なる増加が予想される。
今後の残された問題点としては,今回の寒肥の施用効果が単に窒素を多く施用したが故の効果ではないか,またポーラスでなく硫安でも同じ効果が得られるのではないかという疑問が残る。この為2006年同じ試験ほ場の一番茶で再度の試験を予定している。
近年,春肥重点化に伴う秋肥施肥量の削減化,秋期の降水量の増加などから冬期の土壌中無機態窒素の減少化傾向が認められた。そこで春期の早めの窒素供給を目的に水に溶けやすく土壌中での移動が速い速効性肥料である’あさひVポーラス’を寒肥,春肥Ⅰ及び芽出し肥として茶園に施用しその効果を県内5ほ場で調査した。
1)一番茶新芽の生育は,寒肥(ポーラス)区>春肥Ⅰ(ポーラス)区>芽出し肥(ポーラス)区>慣行区の順で良好であった。
2)一番茶新芽の成分分析では各成分とも処理区間で一定の傾向は認められなかった。
3)寒肥としてのポーラス施用(1月初中旬)後の土壌中無機態窒素は2月下旬には慣行区に比べ4~8mg/100gほど高くなった。他のポーラス施用区でも慣行区に比べ同様な傾向を示した。
4)ポーラス施用に伴う生葉売上収益は慣行区に比べ肥料代を差し引いても収入増が認められた。
1)小西茂毅 他:土肥誌,49,221~225(1978)
2)簗瀬好充 他:茶技研,47,36~47(1974)
3)中村茂和:農業と科学,4,6~9(2003)
4)佐波哲治:茶の栽培と利用加工,(株)養賢堂,142(1994)