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第572号 2006(H18).02発行

PDF版はこちら 第572号 2006(H18).02発行

 

 

浮き苗と鳥害を防ぐ鉄コーティング湛水直播

近畿中国四国農業研究センター
地域基盤研究部 土壌水質研究室
室長 山内 稔

はじめに

 湛水直播は稲作の省力・低コスト化を目指す上で魅力的です。現在,酸素発生剤カルパーで催芽種子をコーティングして土壌中10~20mmの深さに播種する湛水土中播種技術が一般的になっていますが,実際には鳥害などにより苗立ちが安定せず,また農繁期の種子コーティングや緻密な水管理等のわずらわしさもあります。土中播種のためには専用の高精度直播機も必要です。

 土中播種では種子への酸素供給が限られるため,生育が不安定になります。そこで,表面播種にすると種子に酸素が供給され初期生育を改善できますが,浮き苗の発生とスズメによる食害が大きな問題になります。表面播種は旧来の栽培技術ですが,これらの問題があったため広く普及しませんでした。最近開発された鉄コーティング直播では種子を鉄でコ←ティングするため比重が高まり,表面播種しでも浮き苗の発生を抑制できます。また,鉄の皮膜が固いので,スズメの食害を防ぎます。土中播種に比べて表面播種は作業が簡単で,専用の播種機も必要ありません。

 催芽種子を使うと初期生育が早い利点がありますが,適期に播種する必要があり,時間的な制約を受けます。そこで,農閑期に乾籾を鉄コーテイングして保存しておき,いつでも播けるようにします。普通の乾籾では発芽に時間がかかります。そこで,種子が吸水し代謝が活性化した段階で発芽を停止させた乾燥種子を使います。このように処理された乾燥種子は,水に浸かったときの発芽が早いことが知られおり,活性化種子と呼ばれています(平成13年度研究成果情報)。

 鉄コーティング湛水直播技術にはさまざまなメリットがあります。一方で、種子を鉄粉でコーテイングする原理は酸化(錆)反応であり,発熱と酸素の吸収を伴い,注意も必要です。そこで,鉄コーティング湛水直播のやり方と注意点を述べます。

種子の準備

1)発芽率の高い種子(95%以上)を入手します(図1)。市販の種子の保障は発芽率90%以上です。そのため,市販品の中でも良いものを選びます。良い種子を使えば鉄コーティング種子の作製も良好であり,保存したときでも長い間高い発芽率を維持でき,しかも水田での苗立ちも良くなります。田植えでは苗半作といわれますが,直播では種子はそれ以上に重要です。

2)種子消毒(ヘルシード水和剤+スミチオン乳剤24時間浸漬)後,水道水に1~2日間浸種した後,直ちに乾燥させて発芽を停止させます(活性化処理)。浸種時間が長いと乾燥中に発芽してしまうことがありますので,短めにします。

3)活性化処理は採種後の時間があまり経過していない若い種子に有効です。一方で,長く保存されていた種子や傷ついた種子には効果がなく,発芽率を下げることもあります。そのような種子では,種子消毒後の浸種時間を短くするか,活性化処理を省略します。

4)この後,種子を水分14%以下に乾燥させて保存します。種子は乾いているほど保存性が高まり,高い発芽率を長期間維持できます。

鉄コーティング作業

 籾に鉄粉を付着させる原理は酸化反応に伴い生成される錆成分の付着作用です。酸化反応では発熱し,酸素が吸収されます。反応を促進させるため塩分(ここでは焼石膏)を添加し,水をスプレーします。この反応は海岸近くで鉄が錆びやすいのと同じもので,身近には使い捨てのカイロや包装された食品に入れる酸素吸収剤として利用されています。

 鉄コーティング作業においては,発熱,酸素の吸収および錆の付着に注意します。発熱によりイネ種子が高温にさらされると発芽率が落ちます。酸素が吸収されるので,密閉されたところでの作業は避けます。鉄粉を取り扱った後水洗いせずに放置していると,錆が発生してコーティングマシン,容器,衣服,運搬車などに付着し,取れなくなります。

1)鉄コーティング比(種子の重さに対して使用する鉄粉の重さの比率)をきめます。初めて行うときは鉄コーティング比を0.5とし,その時の浮き苗やスズメの食害の発生程度を見て,次回はコーテイング比を1から0.1の間で上下させます。鉄コーティング種子は鉄と焼石膏の2層からなっています(図2)。焼石膏は錆反応を促進するために使っていますが,水と反応して固まる性質も持っています。また,種子の発芽や初期生長に影響を与えないので,鉄粉のきめが粗いときは増量するなど,分量を適宜調節できます。

2)鉄粉の種類は「還元鉄粉」で粒度100μm以下の小さいものが適しています。これまでの試験研究では以下の製品を使用して良好な成績を出しています。
<鉄粉製品>
 同和鉄粉工業(TEL:086-262-2228,FAX:086-262-2328)DSP317鉄粉
 テツゲン(TEL:093-872-2200,FAX:093-872-2208)農業用鉄粉
 ダイテツ工業(TEL:084-955-1361,FAX:084-955-2738)農業用鉄粉
<焼石膏>
 睦化学工業(TEL:0593-31-2354,FAX:0593-31-1044)陶磁器型材用焼石膏A級

3)材料の分量を表1に示します。鉄粉と焼石膏を混合します。

4)活性化種子を1~3分水に浸けることにより種子の表面のみを湿らせた後,コーティングマシンに入れます(図1)。次に鉄粉と焼石膏の混合物を少量入れ,水をスプレーしながら造粒します(写真1)。コーティング比が小さいときは,たらいなどを使い手作業でコーティングすることもできます。

5)鉄粉と焼石膏の混合物でコーティングした後,表面に焼石膏のみを添加し,鉄コーティング種子を滑らかに仕上げます。

6)苗箱などの底の浅い箱に入れ,錆を進めると同時に乾燥させます(写真2)。コーティング直後では鉄は酸化されていないので灰色ですが,この後発熱し酸素を吸収し,茶色の錆びた色になります。そのため,コーテイングした種子は塊にせず,薄く広げて熱を逃がします。目安は苗箱あたり,コーティング種子1kg程度です。また風通しの良い所で作業します。種子が乾くと酸化は停止します。錆びの発生程度は気温,湿度,苗箱に入れる種子の量などによって影響を受けます。

7)コーテイングから一晩たっても十分に錆びておらず,粉っぽく壊れやすいときは,コーティング種子を苗箱に入れたまま,上から水をスプレーします。再び酸化・発熱します。この作業は,種子がある程度固まっており,播種時に壊れないと予測できるときは省略します。

8)この状態で放置し乾燥させ,また場合によっては播種まで置いておきます。乾燥に要する時間は天候にも左右されます。晴天で乾燥しているときは2日,雨天で湿度が高いときは1週間程度です。

9)種子を網袋やバケツなどの容器に入れる場合は,十分に乾いた後にします。種子に水分が残っていると微弱な発熱が続いており,袋や容器の内部が高温となり発芽率が低下し,場合によっては死滅します。雨天のときに袋詰めすると内部の温度が上がることもあるので,晴天時に行います。

10)ビニール袋などに入れ長期間保存する場合には,錆反応による発熱が終わった後で,さらに平面型通風乾燥機を使い40℃以下で十分に乾燥させます。鉄コーティング種子も,普通の種子と同じように,乾燥しているほど保存性が高まります。

11)作製したコーティング種子の発芽率を測定し,90%以上であることを確認します。プラスチック製使い捨てシャーレーにコーテイング種子を入れ,水を添加,暖かいところ(25~30℃)に1週間放置後,発芽した種子としなかった種子を数え,発芽率を計算します。シャーレーの代わりに,スーパーの食品トレイなども使えます。種子の下に紙をひく必要はありません。容器は軽く覆いをして,水が蒸発しないようにします。

耕起,播種と栽培管理

 発芽直後のイネは土壌の還元による障害を受けやすいので,水管理をできる水田が,また湿田より乾田が適しています。未熟有機物や緑肥の施用は湛水後の土壌を強く還元するので播種直前の施用を避けます。鶏糞堆肥は施用しません。代かきを丁寧におこない,また回数を重ねることにより,還元物質の分解を促進することができます。

 直播は移植に比べて雑草に弱いので播種前の雑草管理は重要です。耕起により代かき前の雑草の発生を抑えます。荒代かきを行うことは望ましく,またそれができないときは水を入れて代かきする前に,プリグロックスLなど播種直前に使用できる除草剤を散布します。播種前に雑草の発生を十分に抑えておけば,たとえ苗立ち率が低下しても,雑草に負けることはありません。

 鉄コーティング種子は土壌表面に播種します(図3)。本代かきは播種の1~5日前に行い,土壌が落ち着いて,鉄コーティング種子が土壌の表面にまけるようになるまで待ちます。表面播種とは播いた種子の半数ほどが地表面に見えている状況です。代かき水の中に動力散布機を使って散播します(写真3)。

 条播する時は,湛水直播専用機や田植え機に装着できる側条施肥機を利用した直播装置から作溝と覆土の装置を取り外し,種子が土壌表面に自然落下できるようにします(写真4)。

 湛水条件下の条播では播種位置を確認できない場合がありますので,そのときは落水して行います。大区画水田で散播するときは乗用管理機などを活用して効率的に行えます(写真5)。

 播種量は苗立ち率(播いた種子のうち苗になる割合)を50%と仮定して計算します。播種後に,必要に応じて補水して,除草剤サンバード粒剤を散布します。

 播種後5日目から約10日間落水します。これは,土壌還元により出芽後の種子の生育が障害を受けるのを回避するためです。ひび割れするほどの落水は良いのですが,ヒタヒタ状態や湛水と落水の繰り返しは苗立ち不良をもたらします。還元されやすい土壌とされにくい土壌があり,還元されやすい土壌に播種するときは,落水管理を厳密に実施するとともに,落水を早くはじめて遅くまで継続し,その期間を長くします。落水後晴天が続くと伸び始めた鞘葉が乾いて枯れ上がりますが,葉と根は健全に生長するので,落水を継続します。

 播種後低温(4月下旬から5月上旬)のときは3週間で,温暖(5月下旬から6月)なときは2週間で,苗立ちが完了する(写真6)ので,湛水して一発除草剤を散布します。播種直後のサンバード粒剤と苗立ち完了後の一発除草剤の組み合わせで,多くの雑草を移植並みに管理できます。以降は,倒伏の回避を前提にして,移植栽培と同様に管理します。

 以上は鉄コーティング湛水直播の基本形ですが,さまざまな便宜的な方法もあります。カモが飛来する水田,条播のために落水した水田,土壌の還元が進みやすい水田では落水した後で表面播種し,苗立ちが完了した後水を入れて,湛水直播用の除草剤を散布することもできます。また,活性化種子を使用していますが,出芽は催芽種子に比べて遅い傾向があります。便宜的に催芽種子を鉄コーティングして播種できます。この場合,コーテイングした後2~3日のうちに播種しますので,種子は十分に乾いていません。そこで,コーティング後は苗箱に入れたままにしておき,播種直前に取り出し発熱による種子の損傷を回避するなどの工夫が必要です。

おわりに

 鉄コーテイング種子は室温で数ヶ月保存でき,また低温庫に入れておけば翌年にも使用できます。このため種子を前もって準備でき,大規模農家にも都合が良いと思われます。

 使用する鉄粉量は0.5~5kg/10aであり,秋落ち対策などのために推奨されている含鉄資材の連年施用量の2~15%に相当します。鉄コーテイング直播を継続しても人と環境への安全性に問題はないと考えられます。

 湛水条件下での播種では代かき水を落とさないため,除草剤の効きがよく,水質保全や減農薬につながります。代かき水の落水は肥料成分の流出をもたらし,湖沼の富栄養化をもたらします。代かき水を溜めたままでの除草剤の散布は雑草防除に効果的です。

 一方で,いくつかの間題点もあります。劣化した種子(発芽率90%以下)は鉄コーティングにより発芽率が低下します。また種子消毒剤の種類によっては鉄コーティングにより薬害が出て発芽率が低下する場合があります。このような問題を避けるために,鉄コーティング種子の発芽率は必ず測定し,発芽率が高いことを確認した後で水田に播種します。このようにしておけば,もし水田で直播に失敗したとき,原因が,種子にあったのか,水田の管理にあったのか,明らかになります。

 種子の発芽とそれに続く初期生長は環境に対して鋭敏に反応します。代かき土壌の化学性,特に異常還元の問題は複雑であり,直播種子の発芽・初期生長との関係については,まだまだ不明な面も多く残っています。現在,これらの問題を解決するため,多くの生産者にご協力いただき,さまざまな水田でこの技術を試しています。

主な参考資料

1)平成13年度近畿中国四国農業研究成果情報
  「湛水直播水稲における種子の鉄コーティングによる浮き苗回避」p.219,「浸種催芽・乾燥処理による高活力イネ種子の製造と利用」p.221

2)山内稔(2004)農業および園芸79:947-953

3)山内稔(2005)現代農業84(3):114-117

 

 

旧加賀藩政時代の虫塚から学ぶこと(続編・その3)

石川県農業総合研究センター
資源加工研究部 生物資源グループ
専門研究員 森川 千春

<虫塚の方位論>

 「作庭記」は日本庭園の築造技術に関する秘伝書中,最古にして内容堅実なものであり,平安時代の建築様式「寝殿造り」に付随する庭園について書かれている24)。江戸時代に加賀金澤の前田家に伝来していた巻子本で,三代藩主・前田利常の入手とも考えられ,正暦二年(1289年)以前に転写した写本であると信じられている24)。数々の陰陽道的禁忌作法が記されており54),作庭記の編者は,陰陽五行説の解説書である「五行大義」を作庭の基本理念としていた68)

 庭石の禁忌の中にも陰陽五行の「相剋説」が取り入れられているが68),なかでも「高さ四尺,五尺になりぬる石を丑寅の方に立つべからず。あるいは霊石となり,あるいは魔縁入来の便りとなるゆえに,その所に人の住する事久しからず。ただし,未申の方に三尊仏の石を立て向えつれば,崇りをなさず。魔縁入り来らざるべし」との記述がある24)。丑寅の高さ四,五尺の石は霊石となって悪霊を誘い込む(崇りを避けるには未申に三尊仏を立て向かえる),というのだ。作庭の禁忌を石碑に援用すれば,五尺三寸(埴田)と四尺(岩渕)6)の石を立て向かえる場合,丑寅(北東)に立てるという選択肢はない。当時,虫害も悪霊の仕業であった。

 古来わが国においては太陽の出没方位=辰巳-戌亥の方位の信仰がさかんであった61)。「陰極まって陽萌す」との陰陽思想から冬至は歳の初めとされた。冬至以降は陽気が回復してくるので,冬至の日出方位である辰巳(東南)は生産回復の方向となり,太陽信仰に基づく生産霊の日向信仰の対象となった61)

 一方,夏至の日没方位である戌亥(西北)は穀霊信仰の対象であり,祖霊・地霊の坐す方位であった61)。宮中の諸行事をみても,「祈年祭」における八神殿は西北隅に奉祀され,「大殿祭」には戌亥の方から臨んで辰巳に向かって祝詞が唱えられ,「大嘗祭」における神床の位置は西または西北から東または東南に向かっており,「四方拝」では天皇が戌亥に向かって地を拝する52)

 この戌亥隅信仰は江戸期においても民間に広まっていたと考えられ,蕪村(1716~1783年)の連句がある52)
  作らぬ松に風情増す庭 稲太
  今において乾ゆかしき土の底 蕪村
  祈らぬ中に湧て出る福 宋屋
 「屋敷内の戌亥の隅には古松などがあり,そこは殊の外神聖な場所とみられ,そのもとには福徳が湧き出る」との信仰を表している52)

 大和朝廷や平安宮廷から辰巳隅は熊野・伊勢であり,戌亥隅は出雲であった52)。伊勢・出雲が対になり,辰巳・戌亥隅信仰が確立したのは天武朝と推定されている52)(陰陽寮が成立した時期である)。この辰巳・戌亥が一対になった関係は伊勢神宮にも見られる。太陽神・天照大神を祀る内宮は辰巳に,穀霊神・食物神たる豊受大神を祀る外宮は戌亥に位置する。奇しくもこの伊勢神宮の配置は,二基の虫塚の配置と同縮尺でほぼ一致する。伊勢神宮と虫塚を同列に扱うとは全く不敬な話かもしれないが,虫塚は不浄の呪術装置というよりはむしろ,五穀豊穣を祈る神聖な祭祀の場であったと考えたい。

 埴田の虫塚から岩渕の虫塚を臨む方位をたどると,岩渕の虫塚わきを流れる滓上川は白山本宮に祀られていた地神(本来の神)「糟神」に由来し,本宮四社の一つ金剣宮は「源平盛衰記」には「仏が原」(岩渕の隣・原村と同義か)にあったとされ,原村から東南ヘ約5km,「鳥越」の名称、は修験の霊地をさすという10)(残念ながら「鳥越」の名称は市町村合併により失われた)。さらにこの延長線は別宮→中宮のラインと平行に走り,霊峰白山に到達する(図5参照)。埴田→岩渕の方位は祖霊・穀霊の地から白山信仰の聖地を拝する方位であった。

<古代方位信仰ネットワークと巨大三尊仏>

 ここで一つ気がかりが残るであろう。徳橋組の西方と南方には二つの虫塚を「丑寅」にのぞむ地域,すなわち「高さ四,五尺の石」の崇りをうける地域が存在する。しかし,この崇りを避けるための「未申」の「三尊仏の石」は存在していた。それは「冬至日出方位」と「霊峰白山」の方位が一致する場所を捜す過程で発見された。

 小松市那谷町にある高野山真言宗別格本山「那谷寺」から眺める冬至日出は,白山の御前峰と別山の間から現われる(図5)。生産霊の日向信仰,辰巳信仰に基づいた位置設定である。これだけでも「那谷寺」は重要な意味を持つが,その位置はまた,二つの虫塚からは南西(未申)にあたる(図5)。

 そして那谷寺の書院の庭「琉美園」には巨大な三尊仏があるのだ。それは石仏でも石組みでもなく「岩壁」。高さ9mにもおよぶ(巾六間余,高さ三丈許71)),三分割されて見える「自然岩壁」を三尊仏に見たてた「三尊石」であり(図6),しかも丑寅を向く。さらに詳細にみると,「那谷寺からみた埴田の虫塚の方位」も「三尊石壁面が向く方位」も,真北から東ヘ約35度であり,三尊石は埴田の虫塚に向いている。これに対する「埴田の虫塚の正面(”虫塚”の文字)」は真南から西ヘ約35度の方位で,埴田の虫塚と三尊石は,その真正面で正対しているのである(図5)。岩渕の虫塚は那谷寺から見て丑寅のど真ん中(真北から東ヘ45度の付近)にあった可能性が高い。

 門前の「那谷寺由来」等によると,「那谷寺」は養老元年(717年),白山の開山・泰澄を開祖とし,当初は「岩屋寺」と称された。平安時代の寛和二年(986年)には花山法皇が行幸され,しばし那谷寺に住し,観音浄土の補陀落山(観音菩薩の住む処)の如き庭園として境内整備を行い,西国三十三ヶ所の第一番・那智山の「那」と第三十三番・谷汲山の「谷」から「那谷寺」と名付けて,中興の祖となった。

 少し時は遡るが,花山天皇は謀略により退位させられ法皇となった54)。この退位を陰陽師・安倍晴明が天変から察知している54)。この他にも晴明は,花山天皇の前世を言い当てた54)。花山法皇の那智山御龍りを邪魔した天狗を岩屋にまつった70)など,関わりが深かったようであり,那谷寺の相地に晴明が関与したのでは,という想像も膨らむが,信頼すべき史料が少なく(多くは後世の創作か?),深入りは避ける。しかし,平安京の丑寅に位置し,丑寅を向く三尊仏の岩壁を有し,さらに冬至日出を白山に見る那谷寺は特別な地と認識されたことであろう。南北朝期の戦乱で堂塔はことごとく焼失したが,寛永年間に前田利常によって再建されている。

 「作庭記」に「延圓阿闍利は石をたつること相伝を得たる人なり」24),すなわち「石の禁忌は延圓相伝のものである」54)とされる「延圓阿闍利」は日本庭園の開祖ともいうべき平安時代を代表する造園技術者である24)。延圓は花山天皇の政権を担当した義懐中納言の子であり,中納言父子は,陰謀により退位させられた花山法皇にいつも寄り添うようにいたという24)。延圓は花山法皇の那谷寺滞在中も同行し,作庭に関わったのではないか。三尊石は延圓が見出したのかもしれない。後の世,「作庭記」を入手した利常が書院に住みこみで那谷寺再建に取り組んだ意気込みが分かる気がする。利常は那谷寺再建のために「作庭記」を入手したのではないか。

 重要な例をあげよう。「作庭記」の「瀧の落ちる様々を云う事」には「不動明王のちかひてのたまわく,三尺になれは皆我身也。いかにいはむや四尺五尺乃至一丈二丈をや。このゆヘにかならす三尊のすかたにあらはる。(不動明王が誓って言われたことは,90cm以上の高さの滝はすべて私のからだである。いわんや1.2m,1.5m,或いは3m,6mの滝はなおさらである。だから滝は必ず不動三尊の姿になるのだ。67)」とある。三尊石に滝を流せば高さ三丈(9m)という作庭記の記述をも凌駕する巨大な「不動三尊」となる。

 しかし十一面千手観音を本尊とする那谷寺の三尊石は観音菩薩を脇侍とする「阿弥陀三尊」がふさわしい。寛永十七年(1640年)からの那谷寺再建にあたって利常は「不動院」という別院(現在の書院・庫裏にあたる)も造立し,寶永(1704~1710年)の頃までは「那谷不動院」と祈祷の守札にも書かれていたが,のちに「那谷寺」の本号に復古せられた63)。「那谷寺案内」71)には「微妙院(利常)嘗て此(三尊石)に懸瀑を作らんとて,巨巖の頂に一候の溝を穿ちぬ」とあり,三尊石の案内書きには「三尊石より滝を落とした庭園が寛永時代(1640年)に作庭されていたが,往時に荒廃してしまった」とされている。作庭記を学んだ利常が「不動院」の造立にあたって三尊石に滝を流して「不動三尊」とし,後に「那谷寺」本号の復古にあたり,滝を止め「阿弥陀三尊」に復したものと考える。

 嘉永四年(1851年)のものと考えられる「加州那谷寺山景之図」64)には持佛堂裏に「三尊石」が象徴的に描かれており,その存在は名刹の名所として広く知られるところであったろう(図6)。虫塚を丑寅にみた場合,未申に立て向かう「三尊仏の石」は存在した。これほど霊験あらたかな三尊仏は他に少ない。大きさ(岩壁),位置(白山信仰・辰巳信仰),向き(未申から丑寅に向く,埴田の虫塚との正面での正対),寺の由緒(法皇による庭園整備),格式(別格本山),すべて申し分ない。これで虫と虫塚による崇りはすべて封じられる。もし,このような方位設定が意図的に仕組まれたものであれば,目的は信仰であっても,その過程はもはや立派な科学である。

<虫塚の政治的意味>

 那谷寺は「正徳の一揆」の舞台となっていた。正徳二年(1712年)八月十日に強風被害があり,同年十月七日,農民6,7千人が大挙して,那谷寺に宿泊していた被害見分の役人を襲って包囲し年貢米の六割軽減を承認させた63,65)。一揆が起きること自体が藩の失政,役人の失態を示すものである65)。全農民の結束のもと藩にすべての要求をのませ,しかも首謀者が発覚しなかったという大一揆65)は藩にとってはまさに大失態であった。包囲された役人が「三尊石」に上り山伝いに逃亡した63),という一揆の記録は「那谷寺通夜物語」として民間に流布していた65)。あえて作庭記の禁忌に抵触する「四,五尺の石」を用い「那谷寺の三尊石」に立て向かえたのは,事後の経済援助を引き出すための「正徳の一揆を忘れるな」との藩当局への無言の圧力であったに遣いない。故に「埴田の虫塚」は礎石一体型の六尺三寸ではなく,五尺三寸の石碑とー尺の礎石に分割する必要があった。

<先代十村役のこと>

 虫塚を立てた田中三郎衛門の父,七代十村・田中清作は鹿島郡士族・高橋家からの養子である27)。なぜ、能登・鹿島郡の士族が加賀・能美郡の農民の家に入ったのであろうか?この理由の一つに,修験道の聖地としての白山と石動山の関係を考えてみたい。

 鎌倉時代の修験集団形成期において,白山は熊野,吉野(金峯山)に次ぐ第三の霊験所とされ,鎌倉時代末期には熊野山伏は天台宗寺門派(延圓は後に寺門派の総帥となっている54))の聖護院を中心とする「本山派」を形成した33)。一方,鹿島郡にある石動山は,真言宗醍醐寺の三宝院を中心として室町時代中期に形成された31)「当山派」の北陸における拠点であった30)。田中清作は,いわば「当山派の拠点」から「本山派の霊験所」ヘ養子に来たわけであるが,康治二年(1143年)の作とされる「古縁起」によると石動山の開山は「法道仙人」とあるものの,承応三年(1654年)前田利常寄進の伊須流岐比古神社縁起書の石動山縁起では,白山の開山「泰澄」が石動山を開いたとしており7),江戸期には白山勢力が石動山に入り込んでいたと考えられる。

 伊須流岐比古神社の別当寺・石動山天平寺は,北陸七ヵ国(加賀・能登・越中・越後・飛騨・信濃・佐渡7))の知識米(知識は寄進の意)徴収の権限を有し30)男子が十五歳に達した家では必ず玄米三升を出さねばならず,その徴収は横暴を極めたが,一方で,山伏修験者は息災延命・五穀豊穣の祈祷を行ったり薬草を施したりして信用を受けることもあったという30)。白山勢力の石動山への介入,石動山勢力の加賀方面への知識米徴収活動,そして修験者の有する五穀豊穣の祈祷術,これらが鹿島郡の士族と能美郡の農民を結び付けたのではなかろうか。このことは高橋清作の修験道との関わりを暗示する。

 もう一つ見逃せないことがある。岩渕の「西光寺跡」と奥州平泉の「鞍馬寺を模した西光寺」の関係について前述したが,旧・鹿島郡内にも「鹿島路村」と「西湊村」に「西光寺」が認められ8),両寺とも現存する。このうち西湊村の「西光寺」は現・七尾市小島町,小丸山第二公園(西光寺山)にあり,その開基は奥州佐藤秀衡四世の孫,僧感叡とされる8,37)
≪下線注:藤原の誤りか,しかし平泉から義経に付き従った佐藤継信・忠信兄弟69)(あるいはその母66))を秀衡の従兄弟とする系図もあり,秀衡と佐藤姓は近い≫

 古くは天台宗でのちに浄土宗となり七尾城山麓にあったが,上杉謙信の七尾城攻めで退き,江戸期に入ってから現在地(おそらく当時は小丸山城内)に再建された37)。「小丸山城」は元和元年(1615年),一国一城の制により廃城となるが,その後,郡奉行所が置かれ明治まで使用された37)。「西光寺」は存続し,明治十二年には鹿島郡役所として使われ37),城や奉行所に付随した公的性格の強い寺と思われる。

 本寺は,また注目される由緒ある寺でもあった37)。宗教界で有名な天正七年五月二十七日,織田信長の裁定で行われた「安土問答」で法華宗側に勝った浄土宗側の論者・聖誉定安が,この西光寺の住持(住職)だったからである13,37)。天正四年(1576年)上杉謙信の七尾城攻めのとき,城の直下にあった西光寺の十代住持・聖誉定安は戦乱の能登から安土に逃れ,天正七年には安土町田中(現・近江八幡市)の西光寺住持となっていた37)。法華宗との宗論(教義論争)に勝ったことにより,信長から即日,団扇を賜り褒めたたえられ13),八月二日には銀子五十枚を贈られ,宗内の有名僧となった37)

 士族であれば城と関係の深い名刹を知らぬはずはない。古くは天台宗の寺であったことも,修験道に通じたものにとって注目すべきことである。鹿島郡士族・高橋清作は奥州ゆかりの西光寺の由緒をたずさえ徳橋組にやってきたことであろう。奥州と鹿島郡と能美郡の「西光寺」は七代十村役・田中清作により結び付けられた。現・七尾市小島町には「鞍馬山」(標高59.9m)も存在している。

<虫塚建立前後>

 天保十年八月二日,白山村太兵衛は石川郡と河北郡の御仲間あてに,「木実油を用いた者が,虫の害を凌いだので,大聖寺から木実油を百荷買い上げ,野々市村の油吟味人三郎兵衛方に預けてある。提供できるので各組それぞれ必要量を急ぎ知らせるように」との意の書状を出し,「油一升に酒3合を混ぜて鍋であたため,百歩につき3合蒔く」と使用法まで記した50)。これが能美郡に属する徳橋組まで届いていたかは定かではないが,十村役間の文書のやりとり,いずれは知ることになったであろう。天保十年に木実油の使用実績があったのである。このことは田中三郎衛門の評価を上げこそすれ下げるものではない。「木実油ヲ用ユレば愁ウスカルベシ」は地元・加賀藩内の「防除実績データ」を元に書かれていた。

 能美郡は石川・河北2郡より大聖寺に近い,加えて,当時,埴田村では製茶が行われていた27)。ツバキやサザンカの油も木実油として使われていた時代,チャの実も用いたかもしれない。前に除蝗録後編の記述から木実油を油桐と推定した58)が,もう少し「木の実」の範囲を広げる必要がありそうだ。徳橋組は木実油に関しては大きなアドバンテージを有していたのである。

 天保十年は大虫害の年であるとともに,改作法復古の年であった。文政四年(1821年)に十村は一時廃止され農民は郡奉行の直接支配となり,無組御扶持人十村と御扶持人十村は惣年寄に,平十村は年寄並となり郡奉行の補佐にあたることになる6,48)
≪これに先立ち,農村からの抵抗を抑えるために有力十村を入牢させるという「文政二年 の御厳政」が行われ,後に「十村断獄」と呼ばれ た。七代十村役・清作が養子に入ったことにより,田中家から沢村の石黒家に養子に出た原丞は入牢こそ免れたものの御扶持人十村から平十村に降格されている35)。≫

 しかし郡奉行と農民の間の仲介がかえって煩雑になったことから天保十年(1839年)正月十八日の十村制復活になった6,50)。この年,陰陽道を駆使した虫塚建立による除災という大事業は十村の存在意義を藩に再確認させたのではないか。「どうだ,見てみろ!」と胸をはる田中三郎衛門が目に浮かぶようである。

 虫塚建立の翌・天保十一年(1840年),藩政は動いた。早くも三月十八日には改作奉行から,虫害に万全な対策をとるよう油の手配が指示され,五月には「除蝗録」を参考に「稲虫をさる法」をまとめて配布,六月には石川郡小坂組(現在の金沢市北部に相当する)に稲虫駆除用の鯨油等が配布された記録がある31)。しかしその内訳は,二十一カ村には鯨油と鱒油の両方が,二十八カ村には鯡油のみが割り当てられている31)。田中三郎衛門の見込み通り,やはり鯨油は足りなかった。

 虫塚の設計コンセプトは呪術的要素が濃い。しかし,そこに記された碑文はデータと文献に基づいた現代でも通用する科学であり,藩政の「呪術的方法からうんかの生態把握による合理的方法への脱皮」32)に大きく寄与したものと考える。

<結語>

 能美郡史9)には埴田と岩渕の虫塚について「嘗て昆虫學の泰斗・名和淸(「靖」の誤り:著者注)氏之を見,害虫驅除に關して古人の好記念を遺せるもの,全國恐くは此の外に無かるべしといヘり。」と記されている。名和靖氏はギフチョウの発見者として有名であるが,個人の趣味だけではなく,害虫防除と益虫保護の研究を目的に明治29年,岐阜県京町に「名和昆虫研究所」を独力で創立した28)。研究所は明治37年に岐阜公園に移転拡張し,明治44年には財団法人となり,今日に至っている28)。財団法人名和昆虫研究所が運営する「名和昆虫博物館」は「昆虫博物館」(大正8年竣工)と「記念昆虫館」(明治40年竣工)の2棟に標本を収容し,昆虫博物館の2階を支える3本の巨大丸柱は唐招提寺金堂の解体修理時のシロアリ被害木(約1200年前の桧材)を再利用している(登録有形文化財・岐阜県第一号・文化庁) 28)

 名和靖氏がシロアリ研究の一環としてシロアリ被害の古材保存を兼ねて利用したのである28)。天界の名和氏はきっと藩政期の害虫駆除の記念碑たる虫塚の保存を気にかけておられるに違いない。信仰心厚い名和氏は,害虫視察のため各地に出張した際,その地方の「虫塚」を発見すると決して見過ごさず,必ず管理者に応分の資金を寄付し塚が長く保存されるよう努めたという23)

 碑文が優れていることはもちろんであるが,誤解を恐れずに断言するならば,さらに重要なのは陰陽道による虫塚の設計・配置である。古の呪術と侮るなかれ。大和比の1:√2という単純で普遍的な比率による統一は,速い未来,言語が変わってしまっても,人類が滅亡し他の種族に置き換わっていても(はたまた異星人が調査に訪れても!)通用するメッセージなのである。まさに「呪術を装った科学」である。徳橋組第八代十村役・田中三郎衛門は,私達に,そしてもっとずっとずっと先の未来の種族に,藩政期の農民の苦闘・苦悩を伝えたかったのではないだろうか。現在の位置での保存対策をぜひともお願いしたいものである。加賀産業道路から見上げる虫塚は実に誇らしげで美しい。

引用文献

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  http://www.st.rim.or.jp/~success/k_chusonji.htm

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