§歴史の中の肥料[1]
大平洋のリン鉱の島々を巡るエピソード(1)
京都大学名誉教授
高橋 英一
§緑肥(ヘアリーベッチ)による地力増強と水稲栽培への効果
富山県農業技術センター
農業試験場 土壌肥料課
副主幹研究員 岡山 清司
京都大学名誉教授
高橋 英一
小学生の頃,国語の教科書1)で「南洋だより」という題の文章を読んだことを覚えています。それは「横浜の埠頭でお別れしてから,五日目の十月二十日,私はサイパン島に着きました。海上は,まことにおだやかでした。小笠原群島付近を過ぎる頃から,だんだん暑くなって,それからは全く真夏の気候です。」に始まり,サイパン,テニアン,ヤップ,パラオの島々について,島民の暮らしや産物が紹介されていました。私はその中にでてくる,見渡す限りの甘蔗畠やマングローブの林,熱帯の海のすばらしい光景にあこがれた記憶があります。
それは昭和十二年のことだったと思いますが,十年もたたないうちに,それらの島々が悲劇の舞台になるとは当時夢にも思いませんでした。そしてさらにそれから六十年経った今,太平洋地域のリン鉱資源について調べたのがきっかけで,それらに再会することになりました。
歴史の教科書の「大航海時代」のところを開くと,「太平洋は1513年,スペイン人バルボアによって発見された」という記述に出会います。われわれ日本人あるいは日本列島に住んでいた縄文人達は,太古の昔からこの海の存在を知っていたわけですから,この記述はやや奇異に感じられますが,「発見」という言葉の意味について,はじめに少し考えておきたいと思います。
15世紀後半に大航海時代が始まりました(以下図1参照)。アフリカの西岸を南下したポルトガルのバルトロメウ=ディアス(Bartholomeu Dias)は,1488年アフリカ南端の喜望峰に到達しました。これは東回りでアジアに到達する航路の発見につながるものでした。これに対してスペインのコロンブス(Columbus)は,大西洋を西に進めばインデイアスすなわちアジアに到達するとの考えのもとに,大西洋を横断し1492年バハマ諸島中のサンサルバドル(San Salvador)島に到着しました。彼はここはインデイアス(アジア)の一部に違いないと確信して帰還しました。

1501~2年イタリア人のアメリゴ=ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)は南アメリカ(ブラジル)海岸を踏査し,インデイアスがアジアの一部でなく独立した新大陸であるとの認識をもちました。そしてそれを「新世界」という小冊子にまとめ,1503年に出版しました。ついでそれに基づいてドイツ人のヴァルトゼーミュラーが,1507年に刊行した世界図に「新世界」を書き込み,アメリゴの名に因んでこれにアメリカという名を与えることを提案しました。しかしこの「新世界」は大西洋に面した部分が知られているだけで,「旧世界」のアジア大陸から完全に独立しているかどうかについては全く分かっていませんでした。つまりこの時点ではヨーロッパ人にとって太平洋はまだ未知の存在でした。
一方現在のパナマの地峡辺りで金探しをしていたバルボア(Balboa)を隊長とする探検隊の一行が,現地人の案内で1513年に地峡を横断し,その向こう側に海があるのを知りました。バルボアが見たのはパナマのサン・ミゲル湾でしたが,バナマ地峡がほぼ東西に走っていたので,彼はこの海に「南の海(Mar del Sur)」という名前を与えました。
バルボアが「南の海」を発見する一年前の1512年,ポルトガルは東回りでインドネシアのバンダ海にある香料(モルッカ)諸島に到達しました。香料諸島を狙っていたスペインはポルトガルに遅れをとりましたが,もし新大陸の向こうに出られる海峡を見つけることができれば,喜望峰を回航し,インド洋を横断しなければならないポルトガル人より,容易に香料諸島に到達できると考えました。そしてこの辺りの海をよく知っているポルトガル人のマジェラン(Ferdinand Magellan)が,1517年にスペインのカルロス一世に仕えるようになったのを機会に,彼に海峡探索を命じました。
1519年8月マジェランの船隊はセビリヤを出帆して大西洋を南下し,翌1520年10月21日遂に南アメリカの南端に海峡を発見しました。そしてこの海峡(マジェラン海峡)を38日聞かかって通過し,11月28日の夜明けに海峡の外に出ました。正午になるとそれまで激しかった風雨も潮の流れもおさまり,船隊は太陽に照らされた静かな海に迎えられました。マジェランはこの海を,静穏であるようにとの祈りをこめてMar del Pacifico(平穏の海=日本語訳太平洋)と命名しました。その後船隊は現在のチリ海岸に沿って北上し,2000キロメートルも航海してから,初めて南アメリカ大陸を離れて北西に進路を転じました。そして三ヶ月にわたる航海の後,フイリッピンに到達しました。
このマジェランの航海によって,アメリカ大陸とアジアの間に大洋の存在することがヨーロッパの人々に初めて認識されました。以後1606年トレス(Torres,スペイン),1642年タスマン(Tasman,オランダ),1768年ブーゲンヴィル(Bougenville,フランス),1768-1779年クック(Cook,イギリス)などこの海域に名を留めている航海者らによって,18世紀の末にはほぼ太平洋の地理的全貌が明らかにされました。
この後太平洋に入ってきたのは民間人,すなわち捕鯨船員,商人そして宣教師でした。こうして太平洋の島々は次第にヨーロッパ列強,すなわち最初はポルトガルとスペイン,ついでオランダ,イギリス,フランス,そしてドイツの勢力下に置かれるようになりました。一方この間,日本人は太平洋に全く関心を持っていませんでした。昔から日本人の目は西の方の中国とその文化に釘付けになっており,東の方の太平洋には背を向けていました。
しかし16世紀の末になると太平洋を航海するガレオン船(外洋航海のため大航海時代に開発された大型帆船)が日本近海で台風にあって日本海岸に漂着することが時々あり,太平洋で何が起こっているかをうかがう機会がでてきました。1609年9月マニラ総督を乗せてマニラからメキシコヘ向かう途中のガレオン船が上総沖で座礁しましたが,総督のビベロらは大多喜藩主の手厚い保護を受け,家康にも面会し,借り受けた120トンの帆船で1610年浦賀を出帆しアカプルコ(メキシコ)に向かいました。この時家康の意向で,京都の商人田中勝介ら二十数名が同行し翌年帰国したということです。こうして彼らは,太平洋を渡った最初の日本人になりました。
その頃,太平洋を渡った日本人の中で一番有名なのは支倉常長です。スペイン領メキシコとの通商を望んだ伊達政宗は,スペイン国王ならびにローマ教皇に使節を派遣することを考え,遣欧使節に家臣の支倉常長を選びました。
常長は日本で建造された帆船で1613年10月牡鹿半島の月の浦を出帆し,翌年一月無事アカプルコに到着しました。その後彼はメキシコを横断して大西洋を渡り,マドリッドでフエリペ3世に謁見しさらにローマに赴きローマ教皇に謁見,正宗の書状を呈しました。帰途も行きと同じ船で1618年4月アカプルコを出帆,再び太平洋を横断して同年8月マニラに着き,1620年9月仙台に帰着しました。この7年に及ぶ支倉の旅は,大航海時代の日本版にふさわしいといえるでしょう3)。
このように日本に太平洋が開かれようとした時期がありましたが,残念なことにそれから間もない1639年に,キリスト教禁制から鎖国体制をとるようになったため,江戸時代の二百年余りの間,太平洋は忘れ去られていました。日本が再び太平洋に目を開くのは1853年のペリー来航の時ですが,それから70年の後,すなわち1921-1922年のサンフランシスコおよび1930年のロンドンの海軍軍縮会議,さらに1941-45年の太平洋戦争によって,太平洋は日本の命運を決する舞台になってしまいました。
世界のリン鉱資源はその成因から,リン灰石,大陸リン鉱,島嶼リン鉱の三種類に大別されます。「リン灰石」は岩漿(マグマ)から直接生成された鉱物起源のリン鉱で,ロシアのコラ半島のものが有名です。「大陸リン鉱」は動物主として魚類の遺骸の堆積によって生成された生物起源のリン鉱で,北アフリカ,北アメリカ,中国大陸等に鉱床があり,現在最も多く採掘されています。「島嶼リン鉱」は生物起源ですが,熱帯の珊瑚礁などに堆積した海鳥の排池物によるものです。主に太平洋の島嶼に産しますが,存在量は多くありません。
中部太平洋の赤道を挟む海域,すなわちミクロネシア,メラネシアとポリネシアの一部には珊瑚礁が発達し,隆起珊瑚礁の島嶼が多数散在しています4)。この辺りは東から西ヘ流れる赤道流が,窒素やリンに富んだ湧昇流を発生させるので,プランクトンとそれを餌とする魚類が豊富で,海鳥の理想的な生息域になっていました。
点在する珊瑚島には何百万羽もの海鳥が集まり大量の糞を排池します。この糞は高温のため固化するとともに有機物が分解無機化し,アンモニア,リン酸を多量含有する「グアノ」(窒素質グアノ)となって年々堆積してゆきます。これが長く風化作用を受けると,揮発性や可溶性の成分が徐々に飛散,流出し,窒素分が失われて,グアノに含まれていたリン酸とカルシウムが結合し,リン酸石灰の形で残留したリン酸質グアノに変化します。南米大陸の西岸沖を北上するフンボルト海流によってもたらされた「ペルーグアノ」の多くは,この段階のものです。
しかし太平洋諸島では南米西海岸に比べて著しく多雨のため(年間雨量3000ミリ以上,これに対してペルーの首都リマのそれは僅か三十数ミリに過ぎない),リン酸質グアノからリン酸が流失して基盤の珊瑚礁由来の石灰岩と反応して,リン酸石灰の鉱床を形成して安定化します。こうして人間が掘り出すまで,リン鉱として島に保存されるわけです。
このプロセスを振り返ってみると次のようです。陸から海に運ばれ深海にたまったリン酸は,太平洋の赤道流が引き起こす湧昇流によって海面近くに運ばれ,プランクトン→魚類→海鳥という食物連鎖の中で濃縮され,珊瑚礁の上にもたらされます。一方珊瑚虫は海水からカルシウムを濃縮し,珊瑚礁の上で海鳥によって濃縮されたリン酸との結合が行われ,リン鉱が生成します。これは太平洋を流れる海流(赤道流)と気象(高温,寡雨)という環境条件と,一連の生物の働きの組み合わせのなせる技ともみることができます。
つづく
1)尋常小学国語読本* 巻十 第六 南洋だより
*昭和8年から昭和15年まで使用された第4期国定教科書通称”サクラ読本”(巻一が「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まるのに因む)
2)これについては「増田義郎 太平洋-開かれた海の歴史 集英社新書 2004」によるところが多い
3)6月4日愛知万博スペイン館が開いた行事に,支倉常長の子孫とスペインに残って「ハポン(日本)」姓を名乗った藩士らの末裔2人が,400年近い時を超えて席を並べた。(朝日新聞)
4)造礁珊瑚類は,海水温度が一年中18℃以下にならず,塩分濃度も一般の外海水3.5~3.6%低くても2.7%以上の海で,共生藻類が十分光合成を行うことができる層に繁殖し,礁を形成する。従って珊瑚礁は殆ど南北回帰線内にみられるが,熱帯圏内でも太平洋と大西洋の東側は,冷たい湧昇流があるので珊瑚礁は発達しない。
富山県農業技術センター
農業試験場 土壌肥料課
副主幹研究員 岡山 清司
最近,気象の変動が大きく,水稲の生育・収量や米の品質が不安定になり,大きな問題になってきている。この現象を助長する要因の一つとして,水稲-大豆の田畑輪換の長期化による地力の低下が考えられる。この対策として,早急に地力回復を図る必要があるが,富山県では主穀作農家が入手可能な家畜糞堆肥等には限界があることから,それに代わる手軽な地力増強法を確立することが考えられる。このため,水稲や転作作物の前後に緑肥冬作物を組み込んだ輪作体系による水田土壌の地力増強について検討した。
試験は平成14~16年度において実施した。緑肥作物として,エンバク(イネ科),ヘアリーベッチ及びレンゲ(マメ科)を供試し,水稲収穫後に緑肥作物を播種して翌春にすき込み,水稲栽培を行った。緑肥作物-水稲の作付けは同一試験水田で3ヶ年実施し,緑肥すき込みによる地力増強の効果について検討した。また,ヘアリーベッチについては,16年度において,3作目の試験区の他に,1作及び2作目の試験区を加えて検討した。
試験場所は農業試験場内の水田で,土壌は礫質灰色低地土,国領統,SLである。
緑肥作物の播種は水稲収穫後9月下旬~10月上旬に行い,播種量はヘアリーベッチとレンゲが4kg/10a,エンバクが11kg/10aである。ヘアリーベッチとレンゲは無肥料で栽培し,エンバクは基肥窒素を2kgN/10a,追肥を2kgN/10a(茎立期)施用した。
緑肥のすき込みは4月中旬に行い,すき込み2~3週間後に代掻してコシヒカリを移植し,地力窒素の無機化量及び水稲の窒素吸収量の推移を調べ,緑肥による地力増強の効果について検討した。


試験期間中の緑肥のすき込み量は表1に示したとおりである。

ヘアリーベッチは生育ムラが少なく,翌春の10a当たりのすき込み量は全窒素9~17kg,全炭素87~185kgとなり,目標窒素投入量の10~15kg(乾物率50%,T-N2%の堆肥1~1.5t/10aに相当)に達した。レンゲの生育量はヘアリーベッチより少なく,また生育ムラが大きかった。エンバクは生育量が大きいが窒素濃度が低く,すき込み全窒素量は3~9kg/10aと少なかった。
このように,ヘアリーベッチはマメ科植物のため施肥の必要がなく,富山県のような積雪地帯においても大きな生育量が得られる。また,堆肥並みの全窒素量を堆肥散布時のような労力をかけることなくほ場に投入することが可能である。
ヘアリーベッチすき込みによる窒素投入量は,窒素濃度が約4~5%であるため,乾物重を測定すれば5%程度の誤差で推定でき,この推定量から基肥窒素量等の設定が可能になる。
また,ヘアリーベッチのC/N比は約11(T-N:4.2%,T-C:45%)で,良質の堆肥の基準とされる20より小さな値であり,エンバク(C/N:38,T-N:1.2%,T-C:46%)のように湛水時に強い還元状態にはならないという利点も有している。
緑肥すき込みによる投入炭素量と水田跡地土壌の全炭素含有率の関係を図1Aに,また,投入された全窒素量と地力窒素の無機化量(湛水,30℃4週間培養)の関係を図1Bに示した。

エンバクをすき込んだ水稲跡地土壌では,全炭素は多くなるが,その割には地力窒素の無機化量が増加せず,かえって抑制されるような傾向がみられた。レンゲすき込み水田でも生育ムラの影響もあって,土壌の全炭素及び窒素の無機化量の増加がほとんどなかった。これに対し,ヘアリーベッチすき込み水田では,窒素投入量の増加に従って無機化量も多くなり,地力窒素の増強効果が高いことが認められた。
緑肥をすき込んだ水田の地力窒素の無機化パターンを把握するため,代掻後の土壌をサンプル瓶に充填して水田に埋設し,最高分げつ期と収穫期における無機化窒素量を調べた(図2)。

緑肥をすき込んだ水田の地力窒素の無機化量は,どの緑肥においても水稲の移植期から最高分げつ期にかけて多く,その後収穫期にかけては緑肥無施用田の窒素無機化量とほぼ同じ程度であった。
このことは,すき込まれた緑肥由来の窒素は,ほとんど基肥的な働きをすると推察された。したがって,緑肥をすき込んだ場合の肥培管理法は,主として基肥でコントロールするほうが良いとみられ,穂肥は生育の状態を見て判断した方が良いと考えられた。
緑肥の中で,ヘアリーベッチの無機化窒素量はエンバクやレンゲに比べて多くなっており,また,作付け回数が増加するにしたがってその量が多くなっていることが認められた。しかし,作付け回数を重ねることによって増加する地力窒素の無機化量は,すき込まれた緑肥が含有する窒素量より少ない値であった。
エンバクとヘアリーベッチのすき込み区に無肥料区を設置し,緑肥のみかけの窒素利用率を求めた(表2)。

最高分げつ期及び収穫期において,エンバクとヘアリーベッチのみかけの窒素利用率はほぼ同じ値となり,両者から発現する窒素は水稲の生育初期から同じように吸収されるとみなされた。ただし,ヘアリーベッチすき込み区は,投入窒素量が多いために窒素吸収量が多くなった。
この試験におけるコシヒカリの慣行窒素施用量は,基肥が5kg/10a,穂肥が3kg/10a(2回分)である。これに対して,ヘアリーベッチすき込み区は,無機化してくる窒素を考慮して基肥を1kgN/10aに設定した。穂肥は最高分げつ期の生育状況から判断して2kg/10a施用した。図3に最高分げつ期及び収穫期の窒素吸収量と収量比を示した。

ヘアリーベッチすき込み区の最高分げつ期の窒素吸収量は慣行区を上回り,しかもヘアリーベッチの作付け回数の増加に従って少しづっ多くなった。この傾向は収穫期においても同じように認められた。
富山県のコシヒカリでは,最高分げつ期の窒素吸収量は4~5g/㎡が適正と判断されている。しかし,ヘアリーベッチ3作区では窒素吸収量が6g/㎡となり,過繁茂ぎみとなって倒伏が多発し減収するにいたった。ヘアリーベッチ1作及び2作区では,そのような傾向はみられず,慣行区とほぼ同じ収量となった。このように,ヘアリーベッチの作付け回数が多くなる場合は,基肥に相当する窒素量が過多になって過剰生育,倒伏等の弊害がもたらされることに留意する必要がある。
緑肥すき込みと玄米の品質について図4に示した。

14年度のヘアリーベッチすき込み区で白未熟粒が多くなったが,これは基肥窒素量を減肥せずに試験を実施したため,倒伏が激発し登熟不良になったことによっている。15年度と16年度は基肥を減肥したため,慣行区と変わらない品質となった。したがって,ヘアリーベッチすき込みにおいて,基肥窒素量を適正にすれば玄米の品質に対しても悪影響を及ぼさないと考えられた。
ヘアリーベッチすき込み時における水稲の肥培管理では,ヘアリーベッチのすき込み量の把握が重要になってくる。
ヘアリーベッチは湿害に弱く,また越冬直後は草丈が10~15cm程度で細く,生育量も非常に小さい。3月初旬からすき込み時の4月下旬までの約2ヶ月間においても,寒い気象が続いたり,融雪が遅れたりすれば,表1にもみられるとおり,生育量が少なくなる。ただし,ヘアリーベッチの窒素濃度が4%とほぼ一定なので,すき込み乾物重が把握できれば,投入される窒素量が計算できる。この投入窒素量に最高分げつ期までのみかけの窒素利用率を乗じれば,基肥として施用できるおおよその窒素量が計算できることになる。
これらのことから,ヘアリーベッチの生育は,播種時の土壌の水分状態や生育期間中の気象条件等と関連し,また,すき込み後の窒素の発現や水稲の吸収利用も気象条件の影響を大いに受けることが考えられ,今後検討すべき課題も多く残されている。
マメ科のヘアリーベッチは,富山県の中粗粒質水田において,無肥料で栽培しても目標基肥窒素量が確保できる生育となり,これをすき込むことにより水田の手軽な地力増強技術として活用できる。
すき込まれたヘアリーベッチの窒素は,その大部分が最高分げつ期までに無機化してくる。このため,肥培管理のコントロールは主として基肥で行い,穂肥については生育状況を見て判断すれば良いことになる。りん酸と加里肥料については慣行施肥並みで施用する。また,ヘアリーベッチの作付け回数が多くなるに従って,地力窒素の発現量が多くなって過繁茂や倒伏等が発生するので,地力窒素と適正な基肥窒素の把握に留意する必要がある。さらに,ヘアリーベッチは湿害に弱いこと,また,水田にすき込んだ場合は田植えまで2週間以上の間隔を置くことにも注意する必要がある。