農業と科学 平成24年8月
本号の内容
§様々な肥効調節型肥料を用いた40kgN/10a施肥が茶収量等に及ぼす影響
静岡県農林技術研究所 茶業研究センター
生産環境(土壌肥料)
主任研究員 松浦 英之
(現 静岡県農林技術研究所 土壌環境科 上席研究員)
§北海道水田発祥の地 高田万次郎 郷土の稲作に不朽の功績
大野文化財保護研究会
会長 木下 寿実夫
静岡県農林技術研究所 茶業研究センター
生産環境(土壌肥料)
主任研究員 松浦 英之
(現 静岡県農林技術研究所 土壌環境科 上席研究員)
チャは,窒素施用量が多いほど高品質の茶葉が得られるとされることから多量の窒素肥料が施用されてきた。しかし,過剰な窒素施用は硝酸性窒素の地下水等の汚染をもたらす。実際に静岡県内の公共水域における硝酸性窒素の環境基準超過地点8カ所の内,7カ所までが茶栽培の施肥が原因とされている。そこで,環境負荷を低減した持続的茶栽培を実現するためには,窒素成分利用率の高い施肥方法の開発が不可欠である。一方,様々な作目で,肥効調節型肥料の施肥体系への活用による窒素成分利用率の向上及び地下浸透窒素の削減が報告されている。
ここでは,様々な肥効調節型肥料を活用した40kgN/10a施肥体系について,収量,新芽の窒素含有率,窒素収奪量に及ぼす影響を調査したので,その結果を報告する。

表1に示した肥効調節型肥料等とその施用量及び施肥回数により40kgN/10a施用試験を行った。
各区の施肥時期及び使用肥料の詳細は以下の通りである。
①茶研究標準区(慣行:54kgN/10a):硫安,硝安,魚粕,なたね粕を主体とし,春肥(Ⅰ,Ⅱ,芽出し肥の計3回),夏肥(Ⅰ,Ⅱの計2回),秋肥(Ⅰ,ⅡIの計2回)と7回に分施した。
春肥:夏肥:秋肥の施用量の配分は,おおよそ窒素が3:4:3,リン酸及び加里は1:0:1とした。
②茶研新標準区(40kgN/10a):①区を基本に施用量を40kgN/10aに削減し,芽出し肥を除いた春肥,夏肥Ⅰ,夏肥Ⅱ,秋肥の窒素成分の約半分を被覆尿素70タイプに置き換え,施肥回数を5回に合理化した。
③被覆燐硝安加里区:窒素成分を全て被覆燐硝安加里で施用した。春肥として,140タイプを,秋肥として70タイプを用いた。芽出し肥,夏肥を省略し,年2回の施肥に合理化した。
④被覆肥料入り配合肥料区:燐硝安,被覆尿素リニア型40タイプ,同100タイプ及び被覆尿素シグモイド型100タイプを混合した配合肥料(エコグリーン)を用い,②区の芽出し肥を除いた春肥と夏肥を省略し,春肥,芽出し肥,秋肥の年3回施肥に合理化した。
⑤被覆燐硝安加里冬季樹冠施用:②区を基本とし,それぞれの施用時期の肥料から合計10kgNを抜き出し,被覆燐硝安加里(エコロング424)40及び140タイプを冬季(1月)に樹冠上から施用した。

試験は,静岡県農林技術研究所茶業研究センター内ほ場で,’やぶきた’(試験開始時19年生)を用い,2007~09年の3年間実施した。試験規模は5m×1.8m,2反復で,一番茶(5月),二番茶(6月)及び秋冬番茶(10月)の新芽をレール式摘採機で摘採し,摘採量,摘芽の窒素含有率を調査した。なお,窒素含有率はNCアナライザーで測定した。
図1に2007~09年の3年間の平均収量を示した。一番茶,二番茶では,収量に統計的有意差はなく,一番茶で810~944)全区平均883)kg/10a,二番茶で755~881(全区平均812)kg/10aであった。秋冬番茶では④区が①区比べ有意に大きかったが,概ね各茶期の収量は54kgN/10a施用と各40kgN/10a施用で同等であった。

図2に2007~09年の各茶期の平均新芽窒素含有率を示した。一番茶,二番茶及び秋冬番茶では③区を除いた各40kgN/10a施用で①の54kgN/10a施用と同等となった。③区では4.9%と,一番茶の窒素含有率が低い傾向があり,③区は①区(5.2%),④区(5.2%)及び⑤区(5.3%)に比べ有意に低かった。これは③区では3月下旬~4月上旬の速効性肥料を用いた芽出し肥が,省略されていることに起因していると考えられ,この時期の速効性肥料の施用が一番茶の窒素含有率に影響が大きいことが示唆された。

図3に2007~09年の摘採により持ち出された窒素量,すなわち収奪窒素量は,3年間の平均で,25.7~27.8kgN/10a/年となり,54kgN/10a施用と各40kgN/10a施用との間に統計的有意差は認められなかった。

一方,無施肥区の収奪窒素量は,11.7kgN/10a/年であった。各区の収奪窒素量から無施用区を差し引いてみかけの施用窒素収奪量を求め,さらに施用窒素量で除したみかけの施用窒素収奪率を表2に示した。静岡県のチャ成木園における施肥基準の上限値では,年間収穫量及び窒素含有率を,生葉で10a当たり収穫量1,800kg,平均窒素含有率1.2%と想定し,年間収奪窒素量を21.6kgN/10aと見積もっている。ここで,溶脱,有機化,脱窒,揮散などのロスを考慮して,施用窒素の吸収利用(収奪)率を40%として,年間施用窒素量を54kgN/10aに設定している。この試験では,平均生葉収量が静岡県の施肥基準目標1,800kg/10aに比べ2,600kg/10a程度と多かったにもかかわらず,①区の’慣行54kgN/10a施用では30%を下回る収奪率となった。一方,肥効調節型肥料を用いた40kgN/10a施用区では,34~40%と①区に比べ収奪率が高くなり,施肥効率が向上することが明らかになった。

以上から,速効性肥料を用いた芽出し肥を施用せず肥効調節型肥料のみを用いて施肥回数を極端に合理化した施肥体系で,一番茶の窒素含有率に問題が残ったが,その他の肥効調節型肥料を用いた40kgN/10施用では,慣行54kgN/10a施用と,収量,新芽の窒素含有率,収奪窒素量は同等となることが明らかになった。現在,静岡県農林技術研究所茶業研究センターでは,肥料試験以外の全ほ場で表1の②区の施肥体系で栽培を行っている。①区の54kgN/10a施肥では,肥料費が10a当たり約52,000円(2009年購入価格から計算した参
考値:自家配合)であるのに対し,②区40kgN/10a施肥では,約40,000円(同上)と,2割以上の節減となっている。また,肥効調節型肥料を積極的に用いることで,従来の7回分施を5回にまで合理化できている。さらに,施用窒素収奪率が向上することから,地下水系への環境負荷軽減にも有効と考えられた。
大野文化財保護研究会
会長 木下 寿実夫
いわゆる「平成の大合併」で大野町は上磯町と合併して北斗市となった。現在大野町の呼称はないが便宜上大野を使うことにする。大野は北海道の南部に位置し函館市から近い。
大野は稲作で発展し「北海道水田発祥の碑」が建つ地である。その稲作が定着するまでと,稲作成功に貢献した高田万次郎について記してみたい。
明治33年(1900)大野村を中心に6村が統一し,一級町村制が施行された。昭和32年(1957)に町制施行になり,そして平成18年(2006),北斗市となり道南で函館市に次ぐ市である。

大野は稲作と共に発展してきた町と言っても過言でない。
大野の地名の由来は大きい野(大野平野),移住者の名・元の地名アイヌ語と諸説あるが定かではない。蝦夷の歴史に大野の名は寛文9年(1669)に初めて登場する。

明治40年(1907),大野村に農事試験場誘致運動が起こり,大野の立地条件や歴史的実績が道庁の設置基準に適合するものと認められ,同42年に北海道庁立農事試験場が村に開設された。園芸,稲作の試験研究やイチゴ,米の品種改良などに取り組んで,道南地域(渡島・檜山)の農業発展に貢献している。現在は地方独立行政法人試験場となっている。
その他関連機関として,昭和16年(1941)大野農学校が開校し,戦後の昭和22年大野農業改良普及所が開設した。
明治39年(1906)の「村勢要覧」によれば,村戸数1,312戸のうち農家戸数(畑作と稲作)は1,120戸で8割強が携わっていて,人口は村7,900人に対して農家人口は6,000人強であったと考えられる。
時代は経過し昭和25年(1950)の「村勢要覧」では水田面積が約1,765ヘクタールに達して総面積の13パーセントである。
道内でも古い交通の要所であり農業と共に発展してきた町,大野の歴史が盛られ,約1,000ページで農業に多くの内容を割いている。高田万次郎の名は現代史前期功績者,大野村,郷土と稲作,東開発稲荷神社,褒章受賞者,年表など各所に記載されている。
昭和38年(1963),大野町公民館として建てられたものを同55年郷土資料室として開設した。既に集めていた物や同40年代頃までの農具,民具など,稲品種,野外には馬車,馬橇が展示されている。他に縄文土器,箱館戦争資料,交通関係,指定文化財紹介,『赤い鳥・木村文助』コーナーなど数千点を収め農村生活を中心に展示している。平成18年上磯町と合併し北斗市郷土資料館に衣替えして現在にいたっている。

「大野町史」(昭和45年・1970)によると,稲作は文月村で寛文年間(1661~1673)や貞享2年(1685),元禄5年(1692)に試作されたと記録に残されている。「大野村史」(大正2年・1913)には貞享2年が水田発祥とあり,北海道庁発行の「新撰北海道史」(昭和12年・1937)にも同様に記録されている。
本格的に稲作が始まったのは文化2年(1805)で,幕府は庚申塚に90町歩,文月に50町歩,民間が134町歩,を大野村ほか周辺の村々に多くの予算をつぎ込み開田したが,3年後には幕府は中止してしまった。
その後,稲作は顧みられず,水田は廃田或いは稗田の状態であった。蝦夷地ではやはり米がとれないと言われた時代であった。多くの人は駄送,炭焼きに従事,浜へ出稼ぎに出ていた。
明治6年(1873),漁村島松(現北広島市島松)の中山久蔵が大野へ来て相当日数滞在し,研究の結果持ち帰ったのは品種「赤毛」と「白シゲ」で,「白シゲ」は成功しなかったが,苦心の結果仕上げられた「赤毛」は後に石狩,空知,上川へ広められた。「赤毛」は道内各地から求められた。明治初期の函館大火には,米百俵を届けるまでの実力を持つまでになった。
大野一帯が水田に広がる中,明治35年(1902)は凶作,翌年は作付にも支障をきたし札幌から「赤毛」400表を購入して平年作にこぎつけ,翌37年は大豊作だった。しかし,38年,39年と凶作が続くと研究施設設置の要望が強まり42年に農事試験場が設置された。
水田の拡大と共に用水が伴わず明治以来の悩みだった。大野川久根別川から主として用水を引いたが,大野平野の大野・七飯・亀田・上磯の四か村は打開策として大沼の水を導水する「大沼疎水組合」を明治35年(1902)に結成したが,その後解散した。戦後幾多の好余曲折を経て昭和41年(1966) ,国営事業「大野灌漑排水事業」(大野かんぱい)で、大沼の水を大野平野へ流下させ解決した。翌42年は豊作だったこともあり,町の出荷は103,934俵に到達した。
現在の北斗市村内に「北海道水田発祥之地・北海道知事田中敏文書」と刻まれた石碑が建っている。ここから見渡すと水団地帯の大野平野が開け,函館山がくっきりと見える。
碑は昭和24年(1949)に建てられ,碑文は元禄5年説を採り記録と伝承により次のように記されている。

元禄5年は今から320年前であり,松前藩は蝦夷で比較的温暖なこの地に水田を命じたのである。だが冷夏,早霜などで実らない年もあった。ともかく稲作の歴史は古いが,定着するまでは失敗の連続であり,官民ともども百年以上の苦闘を経ている。
碑の前にバスや乗用車を止め,それを眺めている人たちを見かける。ガイドや遠足の先生の説明で,稲作の歴史を思い巡らせているのであろう。説明板はあるが,観光の視点からも周辺に駐車場や東屋などの整備が待たれる。
なお平成20年,石碑は北斗市文化財に指定された。

嘉永3年(1850),稲作不適を覆して米づくりに成功した高田親子がいた。父はもと加賀谷氏,名を松五郎といい,秋田県秋田郡大葛村の生まれ,28歳の時渡道各地を回り歩いた後,大野村高田弥次兵衛の農事を手伝ったことから,娘トラの婿養子となり,文政10年(1827)万次郎が生まれる。
松五郎は養家に手伝うこと18年,弘化元年(1844)に分家した。現本町に耕作予定地を求め万次郎と共に開墾に精励し,弘化4年,1町4反を懇成し大豆6石,そば10石を収穫している。嘉永元年(1848)畑を水田にし,用水を通した。

万次郎は浜行き,駄送等に従事しながら,嘉永3年(1850)初めて水田に稲を植え付け,玄米24石(60俵)を収穫した。文化の米づくり以来40余年を経た当時,蝦夷地で幕府の指導奨励によったものでなく,”取れるかどうか確かな保証もないのに”と世間からあざけられながら打ち立てられた偉業であり,個人の作付けによってこれだけの収量を上げたことは,初めてのことであり,そこに収量の意義がある。
万次郎の成功から6年後の安政2年(1855),そして3年と豊作が続き稲作農家も急増した。この年から仮に定められた田租玄米71石8斗1升6合(10.77トン)は,箱館奉行所の倉庫に収められるものであったが,蝦夷地で取れた最初の租米なので,箱館奉行は翌4年,伊勢両宮,宮中,日光東照宮に進献するため江戸へ回送し,触書が出されるなどの話題を呼んだ。
水田の増加については,明治になってからの北海道の記録には,「明治3年 亀田郡 約288町歩,同11年 同郡 約688町歩」となっていて亀田郡の部分が大野であり飛躍的に増大している。
明治23年(1890)第三回内国勧業博覧会褒状受賞
同25年 緑綬褒章受章
大正7年(1918)開道50年式典で「拓殖功労者」として表彰される(故人)
昭和12年(1937)開発拓殖功労者頌徳碑,東開発神社に建立
同25年 町制施行50年記念「功績者」として表彰される(故人)
平成元年(1989)『新北海道史年表』に載る


昭和58年(1983)より町は住民への啓発のため史跡,人物など計画的・継続的に各所に設置し民間設置のものを含め100基を超え,北斗市になってもこの事業は続いている。高田万次郎に関する説明板は本町の高田家前に建っている。

設立後文化財保護活動を活発に進めた。農業の機械化による経営の変化に伴い農具,民具など廃棄されていく状況に危機感を抱き,それまでの歴史を子どもたちに伝えるためにも農具,民具の収集に努め,文化祭には公開した。
関連の主な活動は次の通りである。
昭和47年(1972)当会設立
同49年 農具,民具など収集開始
同50年 冊子「郷土大野の誕生」編集
同53年 町文化財保護条例制定要請
同56年 史跡説明板大幅増設提起
平成3年(1991)郷土資料室開放及び新郷土資料館建設要請
同6年 「北海道水田発祥之地」などへ大型標柱建てる
同11年 「おおの郷土史かるた」作成
同22年 「高田万次郎」,「指定文化財」などのリーフレット作成
文化の大開田に大野小学校の敷地を主として本陣が置かれ賑わっていた。平成21年(2009),学習発表会劇で6年生が「大野物語~高田万次郎の米づくり~」を演じ,児童は勿論,保護者,地域へ関心を深めた。以後も郷土史を演じる劇が続いている。
郷土資料館を拠点に説明板を辿って散策すると大野の成り立ちが分かるであろう。水田関連を抜き出してみる。
本町;「大野会所と大開田」,「高田万次郎と米づくり」,「大野かんぱい」,「道立道南農業試験場」
市渡;「大野川頭首工と旧大留」
開発;「開発拓殖功労者頌徳碑」
村内;「北海道水田発祥の地碑」


その後,社会情勢の変化から水田は休耕,転作,そして宅地化,工場団地化が続き高田万次郎以来拡大してきた稲作は大きく減った。今この平野を通り抜ける新幹線橋脚工事が急ピッチで進んでいる。
●大野町刊行『大野町史』,『昭和25年版 大野村勢要覧』
北斗市郷土資料館,高田チヨ,落合治彦