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§「米作日本一」における施肥 -1-
ホクレン農業協同組合連合会(JAグループ)
管理本部 役員室
農学博士 関矢 信一郎
§加賀能登の特産・伝統野菜(2)
石川県農業情報センター
主任農業専門技術員
今井 周一
§山間地域圃場整備団地への水稲育苗箱内三要素全量施肥・農薬施用技術の導入
中央農業総合研究センター
北陸水田利用部 土壌管理研究室
主任研究員 中島 秀治
ホクレン農業協同組合連合会(JAグループ)
管理本部 役員室
農学博士 関矢 信一郎
昭和24年から20年にわたる「米作日本一表彰事業」は,増産一筋だった我国稲作の最後の象徴的なページとなった。この事業は朝日新聞社70周年記念として企画されたもので,当時農政最大の課題である米の増産と稲作の低コスト化,農地解放で創出された自作農の生活安定に応ずる形で発足した。
この事業は昭和27年から農林省の委託事業となり,途中で「農業日本一事業」の中に組み込まれるなどの変遷を経て,昭和43年,米余り傾向の中で終了した。
爾来30年余,米過剰が続く中ですっかり忘れられたこの事業の施肥についての部分を主として「米作日本一史」によって切り出し,紹介する。
「米作日本一」については,開始前からいくつかの問題が指摘されていた。すなわち,戦前の競作会では審査過程に疑問が持たれていたこと,多収穫は多肥多労技術で戦後の新しい技術にふさわしくないこと,更にこれによって新しい技術開発の芽をつむことになるなどである。
そこで,審査の公正を期すると共に大学・試験場・普及所の協力を得て技術を解析し,普及に努めることとした。
この結果,受賞者の技術は育種・栽培・土壌肥料・病虫害・農業機械・経営などの面から解析され,公表された。これは普及現場で活用される一方で試験研究期間で深化・発展を経て普遍的な技術となって水稲収量水準の向上に役立った。
まず参加資格としては,30a(後には50a)の水田を耕作している農家で,出品目は10a以上,3枚以内の連続した圃場が条件となった。参加者は2年目の25年で1万人を,26年には3万人を越えた。33年以降は漸減し40年代は1万人程度となった。
審査は都道府県,地域農試毎のブロック,中央の三段階とし,収量調査には農業試験場の職員が立ち会った。中央段階では全刈りの結果によった。
表彰は県・ブロック・中央のそれぞれの段階の1位,6石(31~37年),7石(38~43年)を越えたもの及び,特に秀れた技術について与えられた。
収量の推移を日本一,県一位平均,全国平均について図1に示した。日本ーは760~1,050kg/10aで平均908kg/10a,年次による変動が大きい。最高は昭和35年,秋田県工藤雄一氏で全刈の収量としては現在も破られていない。昭和37年以降収量水準が低下しているが,参加条件の変更も影響しているものと思われる。

一方,日本一と県一位平均との収量差はほぼ300kg,全国平均とは300~400kgで,年次と共に少なくなっている。
日本一は当初西日本にもあったが,30年以降は長野・秋田など寒冷地から出ている。20年間の県一位の平均が700kg/10aを越える県は,秋田・山形・長野・青森の4県, 600kg以下の県は太平洋側に多い。総じて,北高南低,西高東低の傾向は県一位,県平均で認められている。これは日本ーが,立地条件と技術要因の双方によっていることを示すものと考えられる。
多収は多くの技術要素の組合せによって達成されることは云うまでもない。米作日本一の技術解析によって示された重点技術を表1にまとめた。項目を上位から並べると,①土壌改良(客土・深耕・堆肥施用など),②品種,③健苗,④施肥,⑤水管理,⑥病虫害防除となる。中でも土壌改良と施肥,水管理が日本一,県一位の双方で中心となっている。

しかし,この重点技術にも年次による変遷が認められる。県一位などと合せてみると,前期では土壌改良と施肥が重点で,後期では水管理が中心となっている。前期で重視された健苗育成や品種選定は,苗代が折衷方式からビニルやポリフィルム利用の保護苗代となり。また多収品種が定着することにより重点技術からはずれる。土づくりも同様である。
一方で,健苗は初期生育がよく,基肥の多用は過繁茂の原因となることから,制御技術として分施や水管理が重視されるようになった。
施肥は土壌の供給養分を補うものである。多収穫においては作物の吸収する養分が多く,土壌,肥料の双方を増大する必要がある。
地力増強は堆肥施用と深耕が中心とされていた。米作日本ーでも同様であるが,昭和30年代には暗渠排水と客土が加わっている。また,堆肥も多量施用が目立つ。
耕深は12~30cm,平均で19cmである。耕深と収量の関係は明らかでなく,12cmでも875kg/10a,30cmでもこれと大差ない。最高の1050kg/10aでは23cmである。当時の一般農家の平均は12~15cm,一寸一石とされていた当時,18cmは6石すなわち900kg/10aで深耕の効果は大まかには認められている。20cm程度で最高収量が出ていることについては,作土中の交換容量の総量で説明されていた。現在と異なり当時の鋤床層は根が貫通でき,下層にも根系が発達していたことにも留意する必要があろう。
堆肥は1~8t/10a,平均はほぼ2tで,多投されている圃場では透水性が適切である。土壌改良材は当時出はじめの珪カルが100~150kg/10a程施用されている。秋落対策として含鉄資材の施用もみられる。手元の資料には記載がないが,いずれも連用されているものと推定される。
客土の投入は数年毎に3~4t/10aあるいは一度に10tなどが多い。また用水溝の底土の客入や流水による粘土供給もある。
透水性の確保は根腐れ防止一根活性の維持が一義的であったが,水・地温の調節,養分コントロール,生育制御などの水管理を可能にするものである。特に重点とされていない場合は透水性が適切な乾田の場合が多い。透水性が過良な漏水田では床締め,客土,丁寧な代かきなどがなされている。
土壌改良でないが,生育中の土壌環境の改善の手段としての水管理に触れておく。現在,水管理は追肥と共に,移植後の生育を制御できる数少ない手段と位置付けられている。従って,そもそもは天候などによる土壌環境の異常に対応するものであったが,中干しの様に予め作業体系に組み入れられるものもでてきた。水管理は米作日本一事業の中で最も注目された技術である。中でも間断灌漑は初期の受賞者の技術として紹介され,根腐れ防止と高温対策として定着した。表2に示した様に米作日本一期間を通じて受賞者の諸技術の前提となった。昭和40年代には一般の農家技術に普及した。以後,深耕,堆肥多投や追肥・除草は水管理とセットになった。
圃場条件についてもここで述べておく。昭和30年代では基盤整備は進行中で,日本一水田は未着手であった。乾田と湿田でみると,乾田が圧倒的に多い。湿田でも暗渠などにより透水性を確保している。従って,地形的には河川の氾濫原よりも比較的下位の河岸段丘上が多い。
施肥は他の技術要素の変化に対し,柔軟に対応できる技術とみることができる。米作日本一の20年においても同様である。この間で最も大きく変った技術に育苗法がある。30年代に定着した保護苗代は,所謂健苗育成を容易にし初期生育を旺盛にした。これは日本ーを輩出した寒冷地で著しい。
従来,初期生育促進のため基肥を多用していた寒冷地でも過繁茂が問題となり,施肥法も基肥重点から追肥重点に移行した。これは先に述べた昭和40年代の施肥法に対応するものである。
昭和20年代後半は基肥全層一穂肥体系が一般的で,窒素は基肥8,追肥2とされていたが,日本ーでは追肥の割合が高く,2~3回に分けて施用されている。燐酸は全量基肥,一方カリは窒素と共に追肥もされている。
窒素の平均施用量の年次推移は基肥重点であった30年代後半迄は20~24kg/10aと多いが,追肥重点となると17.5kg/10aと減少する。この期の収量は低下しているが,施肥窒素の生産効率は向上している(表2)。

このデータには堆肥中の成分も含まれているのでこの分を差し引くと平均でN-P2O5-K2Oは11-10-13.5kg/10aとなり全国平均の5割増程度となる。
米作日本一の調査は栽培法と収量が中心で,養分合有率や吸収量などのデータが少なく統一的な解析は困難である。表3に養分吸収量の例を示した。これによると吸収量,特に窒素吸収量のブレが大きく,収量との関係-吸収窒素の玄米生産能率は45~75とバラつく。これは日本ーが必ずしも生産能率の向上だけによるものでないことを示し,また同時に技術の多様性を示すものとも考えられる。

なお,具体的な施肥については次回で紹介する。
我国の稲作は多肥多労とされ,米作日本ーもその延長上にあるとの批判が発足の当初からあった。これは用排水の整備,明暗渠の設置,堆肥多投,深耕,健苗育成,密植,病虫害防除・除草,追肥,水管理などの集積の成果とみれば当然とされていた。
そこで,審査には米の生産費調査の手法により労働時間が調査され,一般農家との比較が行なわれた。
表4から読み取られる様に10a当りの労働時間の両者の差は15~5時間でさほど大きくはなく,年次と共に縮少の傾向が認められた。したがって,生産性は著しく高く一般農家平均の100~160%増となった。

これは「日本一」の技術が所謂篤農技術ではなく,合理的な技術体系によるものであるとして評価された所である。
石川県農業情報センター
主任農業専門技術員
今井 周一
約250年前,南森本町の武田弥右衛門(1859年没)によって,金沢の医王山(薬草の名山)から自然薯を持ち帰って自家の畑に栽培したところ自然薯にまさる立派なイモが採れたので,これに力を得て作り始めたと云われている。その後同町の篤農家によって太く,品質の良いものに改良を重ね,現在の森本川の流域の砂壌土に土着したものである。

江戸,明治,大正,昭和,平成と現在の森本川流域の砂壌土に栽培されてきた。医王山の雪解水が集まって川をなし山間の緑を縫って流れ,森本町を縦貫し日本海にそそぐ森本川は古来,毎年春の氾濫で山奥の沃土が大量に堆積した。このあたりにのみ長いもが立派に育つことから付近一帯の人々よりこの地で栽培される長いもは,天恵の珍味とされてきた。しかし,この森本の長いもは市場にもスーパーにもない。ほとんどが予約販売制で,暮れの贈答品として求める場合が多いと云う。どうしても食べてみたい方は南森本の生産農家を訪ねるか,金沢市農協森本支所ヘ訪ねるかしないと手に入らない。そのうえ,河川の改修や近年住宅が建て込んで来たため栽培適地は著しく減少し,現在はその一部(南森本)を残すのみとなっている。
産地と収穫期:金沢市森本地区/11~12月
旬:秋冬
五郎島のさつまいも栽培の歴史は古く,元禄時代末期(1700年頃)に五郎島村肝煎大百姓の太郎右衛門が薩摩の国から種芋を持ち帰り,その栽培を伝授したのが始まりだと伝えられている。その後,明治,大正,昭和,平成へとサツマイモが栽培されてきた。サツマイモは早掘りとして形が良く色も美しく甘いと全国的に知られるようになり,昭和59年に「五郎島金時」と命名され,今日に至っている。

サツマイモの栽培は,自らの手で開墾した砂丘畑ヘ明治10年に12ha余りを作付けしたのが産地化の走りとなり,以降,五郎島村全体に広がり栽培面積も増加してきた。昭和13年にはおおよそ112トンの早堀りサツマイモが,京都,彦根,大阪,敦賀,神戸などの県外へ共同出荷され,市場から高い評価を得て栽培にも一層の熱が入ったと伝えられている。
昭和18年~22年の食糧難の時代には,1,000トンを超える供出割当を完納し,社会不安の救済に大きく貢献した。
昭和35~46年にかけて畑地かんがい事業,構造改善事業,港代替農地造成事業などの着手により畑地が整備され,生産量が倍増した。昭和52年にキュアリング貯蔵法の導入により腐敗いもの減少と周年出荷が可能となり,現在金沢北部砂丘地の主力野菜の一つとなっている。
一方,品種も変わっており,古くは「金時」(紅赤),昭和20年頃から多収穫品種の「茨城一号」が栽培され,続いて「農林4号」(昭和24年)が中心となった。その後,品質の良いものが消費者より好まれるようになり,高知県から「高系14号」を導入(昭和31年)し,昭和34年には「高系14号」に統一された。現在は,「高系14号」から選抜された鮮紅色の強い「コトブキ」(昭和53年導入)を主体に栽培している。その後,帯状粗皮症対策として昭和60年より茎頂培養のものが導入され,現在では主流になっている。
産地と収穫期:金沢市粟五地区/8月中旬~11月上旬
旬:初秋~晩秋
石川県でのレンコンの栽培は,藩政時代にさかのぼる。その伝藩経路は明らかではないが,ずいぶん古く加賀藩五代藩主前田綱紀のころから栽培されていたものと伝えられている。
レンコンが現在のように金沢近郊の特産野菜として陽の目を見るようになったのは,明治20年以降のことである。当時,小坂蓮根(レンコン)と呼ばれ,加賀特産物として取り上げられ,食用として栽培されるようになったと云われている。
現在の加賀蓮根の名は,大正中期,レンコンの生産拡大に功績のあった,本岡大吉氏によって命名されたものである。


蓮の根を食用として利用されるようになったのは,京都との深い交流関係や加賀藩の豊かな財力とともに城中で栽培され,「ハスノ根」として上層武士間で食用(薬用)に供されていたといわれている。その後,金沢市大樋町一帯(小坂地区)で栽培されるようになり「大樋蓮根」と呼ばれ,加賀の国の産物(1861年)として公に栽培されるようになったといわれている。この大樋蓮根は,「地ばす」といわれる品種で地下1m前後を匍匐するため堀あげるのに極めて労力を必要とし,その収量も低く短小型であったが,明治中頃まで栽培が続いたとされている。
明治20年代になるとようやくレンコンの商品性が注目されだし,富農本岡三千治・太吉父子,精農表与兵衛等によって新品種の導入に力が注がれた。明治30年代の「青葉種」,明治40年代の「枯知らず」,「赤蓮種」などの導入がある。大正に入ると「白蓮種」,「南京種」,「赤蓮種」などがあり,これらを総称して加賀蓮根として市場ヘ出荷されていた。
昭和30年代の主な品種として,「備中種」,「支那蓮種」,「上総種」などがある。これまで様々な品種が導入されて改良が加えられてきた。昭和40年代中頃,支那蓮種から選抜育成してきたのが,現在の品種「支那白花」である。
このように,明治以来,大正,昭和,平成と金沢市小坂地区を中心に才田,森本地区,河北潟干拓地,隣接の津幡町まで加賀レンコンの栽培が広まり,一大産地となっている。
産地と収穫期:金沢市小坂・薬師谷・才田地区/8月下旬~3月下旬
県内他のレンコン産地:河北潟干拓地,津幡町,七尾市奥原/8月下旬~3月下旬
旬:秋~冬
「野菜種類・品種名考」のネギに,日本書紀(720)の仁賢天皇の6年(493)の項に秋葱(あきねぎ)の語があり,平安時代には主要な野菜の一つであった。また享保20年(1735)の諸国産物帳に,ネギは全国各地に栽培されていると書かれている。本県の来歴は不明であるが,「耕稼春秋」(宝永4年1707)に金沢の近郊の広岡村(現金沢市広岡町)と長田村(現金沢市長田本町)に多く作付けていると書かれている。また当時はネギのことを「ねふか」と呼ばれていたことも書かれている。

石川県統計書で明治41年以前の資料はないが,41年で45ha,大正4年108haと栽培面積が拡大し,栽培地も石川郡(現の金沢市の一部と松任市を含む),能美郡,金沢市を中心として県下に広く栽培が普及した。特に「石川県園芸要鑑」(大正5年)には,明治後期から大正始めにかけて能美郡根上町赤井のネギは有名であったと書かれている。その後さらに面積は拡大し,昭和39年,270haに達した。しかし,その後宅地化などにより減少し,平成7年で27haとなった。
産地と収穫期:能美小松,松任市,金沢市,羽昨市,志賀町,富来町,七尾市,鹿島町,鳥屋町,鹿西町,田鶴浜町,中島町,能登島町
春まき秋どり:8月中旬~9月下旬
春まき秋冬どり:9月下旬~11月下旬
秋まき夏どり:7月上旬~8月下旬
旬:秋冬
県内に初めて孟宗竹(モウソウチク)が植栽されたのは,加賀藩の割場足軽付けだった岡本右太夫が,明和3年(1766年)に江戸から2株の孟宗竹を持ち帰り,金沢の桜木町自宅に植えたのが始まりである。しかし,この孟宗竹は惜しくも枯れたので,4年後の明和7年(1770年)に再び江戸から取り寄せ,自宅と菩提寺である寺町の妙福寺に植えたところ,今度は根付いた。その後,内田孫三郎氏が孟宗竹の普及に努めたと伝えられている。

この孟宗竹は安永年間(1772~1780年)に金沢市金城地区(泉野,十一屋)に広がり,さらに内川の向田吉右衛門が分譲してもらって産地化の礎を築いたとされている。
富樫地区では,それより遅れて明治初期に当時窪村の大西孫次郎が野村から親竹を移植した。また,明治37年には地黄煎町(現在泉が丘2丁目)の千代栄次郎氏が金沢市窪に移植した。その後,大正~昭和の中頃まで富樫,内川地区一帯の山間地で次第に植栽されるとともに,全国に先駆けてたけのこ振興策を進めてきた。昭和2年に,富樫地区に,昭和8年に内川地区に筍缶詰工場を建設している。また,昭和38年にタケノコ畑地造成事業と近代的な筍缶詰工場が建設された。一方,昭和34年に農協による共販体制を再編し,集荷調整を行いながら販売の合理化を図っている。
マダケ属の一種でタケ類の中で最も大きい。稈の高さ10~20m,径25cmにもなる。地下茎は深さ60cmの範囲に波状に伸長する。ひげ根は地表近くに分布し,養分を吸収して地下茎に貯える。地下茎から芽子が発生し,翌年にはタケノコまたは地下茎となる。タケノコの生産力の最も旺盛な地下茎は,2年生から5~6年生までの地下茎である。
タケノコの肥培管理として大切なことは,施肥と親竹更新にある。施肥には春肥施用と夏肥施用があり,春肥は発筍の1ヶ月前に,夏肥は地下茎の生長とタケノコの増収のために芽子が伸長し始める前に施用する。
親竹の更新は,親竹の伐採竹齢は6年とし,毎年50~60本の古竹を更新し,10a当たり300本の親竹を確保するようにする。
産地と収穫期:金沢市額,富樫,内川,金城地区/4月下旬~5月中旬
県内の他タケノコ産地:小松市,鶴来町,津幡町,門前町/4月下旬~5月中旬
旬:春
県下には剣崎ナンバ(松任市)と下山田ナンバ(宇ノ気町)がある。いずれも来歴は不明だが,栽培の歴史は古い。剣崎ナンバは,「皇国地誌」(明治9年)によると現在の松任市剣崎に蕃椒(ばんしょう=トウガラシ)が栽培されていたと書かれている。一方,宇ノ気町町史を引用すると,下山田ナンバは「加能越三州地理志稿 巻五河北郡」に蕃椒,上下山田二邑作之と書かれている。おそらく両地区とも藩政時代から栽培されていたものと思われる。


剣崎ナンバの本格的な栽培は,明治から昭和30年頃までで松任市剣崎町を中心に畑や水田に多く栽培されてきたが,その後姿を消し,剣崎町だけに土手や菜園の片隅で細々と自家用として栽培されてきた。しかし,平成5年にJA松任市が転作作物の掘り起こし作戦として1支所1特産品運動を展開。また,林中支所の青壮年部は,剣崎ナンバを観賞用の鉢植えに仕立て販売している。
松任市剣崎町でずっと栽培されている「剣崎ナンバ」は,おそらく藩政時代から変わらない在来品種である。草丈1m前後,果実の長さが12~15cm位で細長い。真っ赤に熟れたナンバは,全国でも一番の激辛として地元種苗会社も太鼓判を押すほどの逸品である。
(現在,種子は「剣崎辛長」で市販されている。)
藩政時代から栽培され,特に七塚の漁場を近くに持つ山田としては「こんかいわし」の香辛料として大量に出荷していた。また,どこの家庭にも欠くことの出来ない香辛料として需要があり,ざるにかついで町内はもちろん遠く高松町方面までも売りに行き,大切な換金作物となっていた。しかし,昭和30年代以降イワシの不漁が続き,需要も急激に落ち,現在では家庭菜園として細々と栽培されている。
「下山田ナンバ」は「剣崎ナンバ」に比べると太く,辛くて甘い下山田ナンバとして長年,好まれてきた。
草丈70cm前後,果実の長さが13~15cm位で細長い。
松任市剣崎町/8月中旬~10月下旬
宇ノ気町下山田/8月中旬~10月下旬
このように,加賀能登では藩政時代から季節感に富んだ野菜が栽培され,豊かな食文化を支えてきた。春は芽のもの,夏は葉のもの,秋は実のもの,そして冬は根のものというように季節に応じた野菜が栽培されていた。特に城下町金沢や人口の密集している近郊農村においては,町民の需要に応じた多種類の野菜が生産されていた。
中央農業総合研究センター
北陸水田利用部 土壌管理研究室
主任研究員 中島 秀治
北陸地域山間部には急傾斜地棚田が分布するが,冬期の豪雪や地すべり地帯が多く,農家の高齢化と担い手不足とがあいまって過疎化が進み,耕作放棄地の増加が著しい。その歯止め策の一つとして,区画を拡大する圃場整備が行われた。その1例を見ると,団地総面積が約10ha,100筆,標高差50m,1畦畔の法面1~3m,1筆の面積4~10aである(写真1)。この工事には予算の制約もあって表土処理などの十分な造成が行われず,下層の未熟土がそのまま表土となった圃場が多い。そのため,平均単収も約20kgと低収である。農道は舗装されているが,急傾斜のため作業には難儀をきわめている。

このような条件下において,軽労働・省力作業が可能な稲作技術として,育苗箱内三要素全量施肥・農薬施用法の導入を試みた。
新潟県東頚城郡大島村内の水田4ヵ所,10筆の作土層を分析した。その結果,旧水田では灼熱損量が約10%,燐酸吸収係数は約1000,トルオーグ燐酸は約80mgであったのに比べ,区画整備圃場ではそれぞれ約4.5%,1500,1~5mg/100 g と,区画整備によって肥沃度が大幅に低下したことが認められた。そこで,区画整備2年目の団地内の一つ,牧山地区において土壌改良及び省力栽培試験を実施することとした(表1)。

施肥及び農薬施用は,箱の下から不透根紙,培土,肥料(苗箱まかせNK301-100),種子,培土,熔成燐肥,農薬の順である1)(写真2)。

水稲移植は5月12日に行い,その後19日目(活着期)に各区から根圏土壌を採取(5連)し,化学分析を行った(表2)。育苗箱施肥区ではpHが高い傾向が見られる。交換性陽イオン含量や塩基飽和度も高いことが明らかで,これがpHに反映したものと考えられる。また,可給態窒素,珪酸,燐酸濃度も育苗箱施肥区で高い。これらの現象は移植に伴い,肥料が根圏近くに高濃度で存在していたことを示すものである。したがって,水稲がより効率的に肥料を吸収できる条件であったことを伺わせる。

5月12日の移植直後から7月26日にかけて,計4回田面水を分析した。そのうち三要素濃度を図1,2,3に示した。これら三要素濃度はほぼ同様なパターンを示し,育苗箱施肥区に比べ,慣行区では窒素とカリが約10倍,燐酸が約100倍であった。これは明らかに施肥要素が田面水中に溶出した結果と考えられる。それが慣行区で見られたアオコや藻類の多量発生の原因と考えられた。また,農業用水と排水路が分離されても,用水中の施肥要素濃度の上昇が見られた。



区画整備圃では表土処理が行われず,未熟土がそのまま作土となったため,肥沃度が低下し,塩基類の保持能も低下して,田面水中に肥料が溶出したものと考えられる(表2)。一方育苗箱施肥では溶出をコントロールした肥料を施用しており,これが田面水中の肥料濃度の上昇を抑えたものであろう。したがって,本施肥法は落水時の河川等への肥料流出を低減し,環境保全的にも有効な技術といえる。また,硫酸濃度は全般に高く,用水そのものも高いことから,土壌に由来することを伺わせ,加えて施肥あるいは土壌改良材の影響を受けたものと考えられる(図4)。なお,珪酸濃度は農業用水中に多く含まれているため,育苗箱施肥区でむしろ用水中濃度より低下する傾向にあった。

活着期の調査によれば(表3),区画整備各区の生育は,旧水田に比較してきわめて劣り,特に乾物生産量において顕著であった。また,無燐酸区の生育が悪く,燐酸肥沃度が区画整備により著しく低下したことが考えられた。

収穫期の調査によれば,穂数は旧水田が最も良く,次いで春施肥(慣行),秋施肥,育苗箱施肥2区の順であった。全重では旧水田に比べいずれも低収で,穂数ほどの差ではないが,無燐酸区,春施肥,育苗箱施肥3区が明らかに劣った。籾重もほぼ全重と同様の傾向であった。精玄米重も概ね前記と同様な傾向であったが,ただ育苗箱施肥3区が比較的多く,旧水田の80%であった。一方春施肥区では旧水田の45%と育苗箱施肥の71~81%に比べかなり低収であった。登熟歩合は春施肥区が低く,登熟不良であったことが伺われる。
食味分析(表4)では旧水田区と育苗箱施肥1区がやや劣ったが,他の区では差が認められなかった。粘り値は旧水田区で極端に低く,育苗箱施肥2区は最も高かった。窒素含有率は春施肥区,育苗箱施肥1,3区が低く,旧水田ではやや高かったものの,食味に影響するといわれる数値よりは低かった2)The following is a list of the most common problems with the "C" in the "C" column.

施肥と農薬の同時育苗箱施用は,その後の圃場管理に大きな労力軽減となる。背負い式動力散布機による農薬散布は高齢者にとってとてもきつい労働である。農薬の育苗箱施用では0~1回の散布で済むのに対し,慣行法では数回にもなる。育苗センター施設を活用した本育苗法の導入が図られるならば,労力軽減ばかりでなく,労働時間の短縮,資材の削減等となる。
また,経済性について見れば,区画整備直後でもあり,10a当り慣行法は1~6万円程度,育苗箱施肥法では2万円程度の赤字収支となった。一例として山間部一般水田で実証誠験を行った結果を表5に示した。慣行法と比較して肥料代,農薬代等にそれほど多くの差は無い。しかし,玄米収量は増収の傾向にあるので,その分プラスとなり,また,省力化による労働費削減はきわめて大きな効果といえる。

旧傾斜地水田ではいわゆる棚田と称し,こま切れのためそこでの水稲栽培は困難をきわめる。特に高齢化と過疎化に悩む地域では一層深刻である。その対策もあって,新潟県頚城郡大島村において実施された区画整備水田で,工事後の地力変化と育苗箱全量施肥・農薬施用による水稲の省力化栽培を試みた。地力は表土処理が行われなかったこともあって,極度に低下していた。特に燐酸の不足は顕著であった。収量的には旧水田と比較して,約80%程度であったが,これは前述のように土壌の肥沃度が極めて貧弱となったためである。
したがって,先ず土壌肥沃度の向上が第ーであるが,従来からの土壌改良剤の画一的な圃場全面施与は工事後第1作において田面水中肥料濃度を対数的に上昇せしめ,それが排水とともに流出する可能性があること,また,棚田における水稲生産性における経済的な問題点もある。これらのことからも,肥料や土壌改良剤の稲株下への局所施用法は省カ・軽労働・資源節約型栽培法であり,ひいては環境保全的栽培法でもあることから,中山間地における新しい水稲栽培法として推奨したい。
1)中島秀治:水田における各種成分濃度の変動,農業と科学.2000,3
2)北田敬宇:米の食味向上を目指した土壌管理のあり方,農業と科学.1996,6
3)中島秀治:火山灰土壌台地水田圃場の区画拡大事業前後の水田調査結果,新潟アグロノミー.1999,3