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第526号 2002(H14).01発行

Click here for PDF version 第526号 2002(H14).01発行

 

 

変革期を迎えた日本農業

チッソ旭肥料株式会社
常務取締役 知念 弘

 あけましておめでとうございます。
 平成14年の年頭に当たり,読者の皆様のご多幸とご繁栄をご祈念申し上げます。

 さて昨年を振り返りますと,アメリカ大リーグで日本人選手の大活躍がみられるなど明るいニュースがありました。
 しかし年初からの不景気は一向に改善する兆しが見られない中で,アメリカで起きた同時多発テロ事件は,アフガンでの戦争へとつながり国内外の不景気は一層深刻さを増しております。
 本格的IT時代の幕開けによる,景気上昇を期待していた経済界は,底の見えない不況が依然継続しています。

 一方国内の農業分野では,ねぎ・生しいたけ・畳表三品目について,一般政府ガードの暫定処置が発動されました。また,狂牛病(BSE)が発見され肥料業界も大混乱に陥りました。
 このような中で農水省は,食糧自給率向上策とは別に構造改革策の一貫として環境問題への対応,少子化・高齢化への対応等を二十一世紀の重点的政策課題として取りあげました。

 これらの問題について弊社は,先取りする形で被覆肥料『ロング®』,『LPコート®』を発売いたしております。また昨年からは,光分解性機能と生分解性機能の被膜を併せ持った『エコロング®』を上市いたしました。
 その他緩効性窒素肥料『CDU®』,硝酸系高度化成『燐硝安加里®』,泡状高度化成『あさひポーラス®』,棒状打ち込み肥料『グリーンパイル®』,法面緑化向け『ハイコントロール®』,育苗床土資材『与作®』等の製品も上市して高い評価をいただいています。

 グローバル化が一層進む中で,日本農業は数多くの問題点を抱え,それらの改革・対応策のスピードを上げる必要が叫ばれています。
 まさに待ったなしの変革期を迎えたと言えるのではないでしょうか。
 弊社はこれらの課題について,少しでもお役に立てればと更なる研究開発を進めて参ります。

 おかげさまで『農業と科学』は発刊して32年を迎えます。今後はより身近なテーマをさらにわかりやすい記事内容でお届けさせていただく所存です。

 皆様の変わらないご指導ご支援をよろしくお厚夏い申しあげます。
 本年も本誌をご愛読いただきますようお願い申しあげまして,新年のご挨拶とさせていただきます。

 

 

堆肥又は緩効性窒素肥料の施用が
土壌からの亜酸化窒素ガス発生量に及ぼす影響

静岡県静岡工業技術センター
健康食品プロジェクトスタッフ
技術参与 若澤 秀幸

Ⅰ.はじめに

 二酸化炭素と同様に温室効果ガスの一つである亜酸化窒素の熱吸収能は二酸化炭素の310倍,メタンの30倍で,大気中における寿命は約120年と非常に長い。また成層圏のオゾン層を破壊する物質でもある。近年,亜酸化窒素の大気中における濃度が年0.25%の割合で増加していることが確認されている。このうち施肥により農耕地から発生する亜酸化窒素は,発生量全体の20%と推定されており,地球温暖化の一因と言われている。1996年12月の地球温暖化防止に関する京都会議において,二酸化炭素,メタンと共に亜酸化窒素の発生量削減が先進国に義務づけられた。

 一方,農業環境三法の成立により,家畜糞尿等の有機物の農耕地への投入が,今後増加することが予想される。そのため,投入する有機物の種類や量及び肥料の種類と亜酸化窒素発生量との関係を把握しておく必要があろう。そこで著者らは堆肥の種類や施用量,さらに緩効性窒素肥料と発生量との関係について検討したので,その概要を紹介する。

Ⅱ.材料及び方法

1.堆肥の種類が亜酸化窒素発生に及ぼす影響

(1)試験1:堆肥の施用量が一定の場合

 有機物連用ほ場である黒ボク土畑と黄色土畑において,93年度キャベツ作における発生量を調査した。供試堆肥は稲わら堆肥,豚ぷん堆肥及びバ一ク堆肥で,施用量は5t/10aとした。化学肥料による窒素施用量は26kg/10aである。堆肥の成分と窒素施用量を表1に示した。稲わら堆肥に由来する窒素量(全窒素)は25kg/10a,豚ぷん堆肥では54kg/10a,バーク堆肥では20kg/10aで,化学肥料及び堆肥として施用された窒素施用量の合計はそれぞれ51kg/10a,80kg/10a,46kg/10aであった。

(2)試験2:堆肥由来窒素量一定

 供試堆肥は表2に示したように稲わら堆肥,豚ぷん堆肥,バーク堆肥とし,全窒素として100kg/10a及び50kg/10a相当量を施用した。化学肥料は施用しなかった。土壌は細粒灰色低地土で,トマトを栽培した。試験は静岡農試内ガラス温室で行った。

2.緩効性窒素肥料が亜酸化窒素発生に及ぼす影響

 緩効性窒素肥料と亜酸化窒素発生量との関係を,本県で使用量が多い有機配合肥料を対照として検討した。供試肥料の窒素成分量,窒素の形態と割合を表3に示した。有機態窒素100%の有機配合肥料(メロン配合),CDU燐加安,IB1(120日タイプ),IB2,被覆肥料(140日夕イプ)を供試し,窒素として20kg/10a相当量を施用した。土壌は細粒灰色低地土で,トマトを栽培した。試験はガラス温室内で行った。

3.亜酸化窒素の採取と分析

 亜酸化窒素はクローズドチャンバ一法により採取し,分析はECD検出器付きガスクロマトグラフィーを用いて行った。亜酸化窒素はチャンバー設置直後(0分),10分,20分後に採取した。得られたデータは,全国共通の標準ガスの測定結果から,換算係数を求めて補正した。また,同ー濃度の標準ガスを複数回分析した時の変動係数が4%であったことから,経時的(0分,10分,20分)に採取した試料の分析値の変動係数が4%より小さかったものは発生量0とした。

 亜酸化窒素の採取は,施肥後約2週間はほぼ1~2日おきに5~6回,以後は1か月から2か月に1回行い,最終の採取は作付け終了後とした。

Ⅲ.結果

1.堆肥の種類が亜酸化窒素発生に及ぼす影響

(1)試験1:堆肥の施用量一定

 堆肥施用後の亜酸化窒素累積積算発生量を図1に示した。両土壌とも亜酸化窒素発生量は豚ぷん堆肥区で最も多かった。これは表1に示したとおり,豚ぷん堆肥区は施用された窒素成分量が最も多いためであると考えられた。

(2)試験2::堆肥由来窒素量一定

 亜酸化窒素累積積算発生量をを図2に示した。いずれの堆肥も全窒素としての施用量が多いほど亜酸化窒素発生量が多かった。堆肥の種類では豚ぷん堆肥が最も多く,次いで稲わら堆肥,バーク堆肥の順であった。このように全窒素としての施用量が同じでも,堆肥の種類により亜酸化窒素発生量は異なった。

 施肥後15日以降の土壌中の無機態窒素の推移を図3に示した。稲わら堆肥と豚ぷん堆肥は全窒素としての施用量が多いほど無機態窒素量は多く推移し,豚ぷん堆肥区が最も多く推移した。

 これらのことから,木質物主体でC/N比が高いバーク堆肥にくらべ,豚ぷん堆肥のように全窒素が多く,C/N比が低くて窒素が無機化しやすい堆肥は亜酸化窒素発生量が増加しやすいことが示唆された。

2.緩効性窒素肥料の種類が亜酸化窒素発生に及ぼす影響

 施肥後の亜酸化窒素累積積算発生量を図4に示した。CDU区,IB1区,IB2区における施肥後約2週間の発生量は有機配合区より少なかったが,その後増加した。CDU区とIB1区における発生量は,有機配合区より少なかったが,IB2区では有機配合区を大きく上回った。被覆肥料区における発生量は最も低く推移したが,その他の肥料も施肥後3カ月以降,発生量の増加程度は小さくなった。このように緩効性窒素肥料区における亜酸化窒素発生量は,IB2を除きいずれも有機配合肥料より少なく,特に被覆肥料では有機配合区の約1/5に減少した。

 土壌中の無機態窒素の推移を図5に示した。被覆肥料を除くすべての肥料区において,施肥後約2カ月間は高濃度の無機態窒素が認められたが,亜酸化窒素発生量が減少する3カ月以降,無機態窒素は低い値で推移した。亜酸化窒素発生量が最も少ない被覆肥料区では,無機態窒素は常に低かった。これらのことから,亜酸化窒素発生量と土壌中の無機態窒素との間には密接な関係があると推定された。

Ⅳ.おわりに

 化学肥料だけでなく堆肥施用によっても亜酸化窒素が発生し,窒素としての施用量が多いほど,また,推肥窒素の無機化率が大きいほど亜酸化窒素発生量は増加することが明らかになった。今後は化学肥料だけでなく堆肥等の有機物資材に含まれる窒素成分の量と質を考慮し,過剰施肥にならないよう配慮することが求められる。このことは,亜酸化窒素を削減だけでなく,硝酸態窒素による地下水汚染を防止することにも繋がる。また緩効性肥料の適切な使用により施肥量を削減できたとの報告が多いが,それに加え亜酸化窒素の削減も可能であることが示唆された。

 

 

富山の治水に貢献した蘭人技師(ムルデルとデ・レイケ)
(一)ムルデル

富山県郷土史会常任理事
デ・レイケ研究会員
前田 英雄

 西暦2000年は「日蘭交流400年」ということで,日本各地でシンポジウムや記念行事が行われた。富山でも「デ・レイケ」シンポジウムが国土交通省の工事事務所主催で行われた。日蘭交流400年というのは,1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦の年,オランダ船リーフデ号が大分県臼杵湾に漂着した年から数えて400年ということである。二百数十年に及ぶ江戸幕府の鎖国体制のなかでヨーロッパ諸国で日本と唯一の交流が続けられた国がオランダであった。オランダは新教国でキリスト教布教より交易を目的とした国であったので,長崎出島に商館を置いて通商した。

 リーフデ号で漂着した船員のなかで航海長ウィリアム・アダムスと航海士ヤン・ヨーステンは日本に留まり,アダムスは家康の外交顧問となり,ヨーステンは朱印船貿易に携わった。出島の商館長は毎年「オランダ風説書」という海外ニュースを幕府に提供していた。明治維新後政府は日本の治水,港湾整備の技術渚としてオランダ人技術者を雇った。それはオランダの国土の3/4が海面より低い国で土木技術に秀れているという推測からである。招かれたオランダ技術者10名であった。

 この中で日本に最も長く留まったのは,デ・レイケで1873年(明治6年)から1903年(明治36年)までの30年であった。ムルデルはそれに次いで10年であった。水田率90%を超える富山県にとっては「水」の確保は何よりも重要なことであった。急流で暴れ川が多い県内河川の「治水の労苦」水との戦いの歴史は富山の歴史そのものであった。県内河川の治水に転機を与え西欧の土木技術の導入をはかったのが,ムルデルとデ・レイケの二人のオランダ人技師である。

1.ムルデルの県内五大川調査書発見

 1988年(昭和63年)5月10日,県内各紙はムルデルの「越中五大川調査書」が発見されたことを一斉に報じた。

 黒部市三日市のさる旧家に眠っていたものであった。

 表書の標題左下に「随行者平井順吾」とあるのは当時下新川郡役所の書記を勤め,後に三日市町長となった人である。使用用箋は「郡役所」のもので報告書の写しとみられた。その後庄川町水資料館が京都の古書店から同じ報告書を入手されたが,この用箋は「内務省」とあるので三日市のものより本文に近いと考えられる。しかし内容については同一であった。ムルデルが在日10年余りの間に書いた調査書や計画書は判明している分は18件あるが,そのうち7件は不明であった。越中五大川報告書も,その幻の一つであった。

2.五大川調査の価値

 五大川というのは①庄川・小矢部川,②神通川,③常願寺川,④早月川・布施川,⑤黒部川をさしている。この報告書は1883年(明治16年)大石川県から水害をめぐる対立が原因となって富山県が分県独立したばかりの年であった。富山県河川に関する最初の調査書である。その当時における富山県の主要河川の状況がわかるということと,西欧の専門土木技術者の目によって記録されたという貴重な史料と言える。また,ムルデルやオランダ人技師たちの治水思想の片鱗を知ることができる。

 8年後の1891年(明治24)の常願寺川大水害の復旧改修工事をしたデ・レイケの計画の原点となったのではないかと推測される。

3.ムルデルが見た五大川の様子

 調査報告書は1883年(明治16年)9月13日東京で作成され,内務省土木局長に提出された。

(1)報告書の内容

ア,庄川と小矢部川

 一つの川が合流して半里(2km)を射水川という。勾配が緩やかで流れは弱い。河口港(伏木)は風浪から護るために堤防があるが,これを更に伸ばすときは構造を大きくし,強固にする必要がある。近くの太田に良質の石材があるからこれを用いるとよい。

イ,庄川本流

 大門(右岸)と枇杷首間の河幅は狭隘で上流の500mの1/3しかなく川の流れを渋滞させているので川幅を広げなければならない。寺島・金屋村(現庄川町)の左岸に12の用水取入口を設けているが,決壊と氾濫の被害を増大している。導水の水門をーか所に設けよ。現在の庄川合口ダムを遡って大牧まで行くと急斜面の耕作と焼畑で山腹の惨状は甚しい。

ウ,小矢部川

 青島から平地(扇状地・砺波平野)は緩やかに傾斜して小矢部川の方に下っている。灌漑溝渠(用水)の勾配及び流路は良好である。小矢部川は旱天の時期にかかわらず津沢から河口まで小船の通行が可能である。高岡に沿って流れる支川の千保川は改修すれば,現在よりも吃水(i)が大きい船を通せる。峻険で樹木がない山の斜面は防護の栽植し,土砂流失の川(利賀谷)はダムを設けるべきである。

 ①吃水船が水に浮かんだ時の船体の沈む深さ

エ,神通川

 水の流速と深さは本県第ーである。この川は富山から岩瀬までしかみていない。改修のための地図を作るために「量水標」の設置を県吏に勧告した。市街近くでは川幅が狭いため,ここに水が滞溜して市街地が浸水するので川幅の拡張が必要である。神通川の汚れと土砂堆積は第一は地震・伐木耕種による山の崩壊である。河口の岩瀬港は土砂の埋積で衰えた。

オ,常願寺川

 大川寺山から常願寺川下流域を望む扇頂部(滝)から河口まで19kmしかないのに標高157mで非常に急勾配である。屈曲した川を切断して修正しようとすると勾配がさらに増大し流速が増すので得策でない。堤防は石と砂礫で構造されているので,実際は脆弱であるから表面の大石の裏に厚い粘土層を加えるべきである。

カ,早月川・布施川

 両川とも砂や石を多く流している。被害の原因は大崩崖と禿班(焼畑と乱伐による)は,天然あるいは住民の行為によって生じたものである。

キ,黒部川

 近年河底が低下し取入口が上流に移してきた。高い堰を作るか墜道によって取水するかの二つであるが断然第二の策がよい。

(2)調査期間と各河川の調査範囲

 調査期間を記したものは何もないが,内務省土木局長に提出した報告書の日付が「1883年(明治16)9月13日」とあるので,それ以前の1~2か月の間に調査したものと考えられる。日本の一番暑い時期に徒歩か馬に乗るかの二つの方法しかなかったのである。その苦労と身体の酷使は並大抵のものでなかったと想像される。

 ムルデルの各河川の調査範囲はーか所でなく上・中流から下流または河口までの範囲を調査していることが記述で明らかになる。それは次の通りである。

・小矢部川…城端村イネシマ橋~河口伏木港
・庄川…大牧,利賀谷口~下流小矢部川合流点、
・神通川…富山町~河口東岩瀬港
・常願寺川…上滝大川寺山~水橋?
・早月川・布施川…?
・黒部川…舟見用水取入口辺り~下流

4.ムルデルの報告書のまとめ

 彼は各河川ごとに問題点を指摘し改善方法も示している。それを総括すると

(1)上流山林乱伐禁止

 上流山林の乱伐を禁止し,急斜面の耕作や焼畑農業の禁止を法律を以って制限し,しかも罰則規定も設けよという厳しいものであった。ムルデルは乱伐の防止について藩政時代の加賀藩・富山藩の「七木の制」の廃れたことにも原因があると記している。七木の制は山林資源の保護と資源確保のために設けた政策で,越中では,スギ・マツ・キリ・カシ・ケヤキ・ヒノキ・クリを対象とした。山林御締を担当したのは「山廻役」といった。ムルデルが七木の制に言及していることは藩政時代についてかなりくわしい情報を得ていたものと思われる。庄川の用水についても右岸に3用水,左岸に6用水がありこの合口化が夢であった状況についても理解を示し導水水門をーか所に設けることを提案している。

(2)二県にまたがる川の一貫治水

 庄川と神通川はその源を岐阜県に発しているので,あらかじめ両県が協議して一貫した治水を行なわなければ水害対策の根本的な方策をとれないことにもふれている。大正3年(1914)の大洪水のあと神通川の土砂流出が激しく,東岩瀬港に大量の土砂が埋積して港の機能が失われた。当時の富山県会は神通川源流の岐阜県大野郡と吉城郡の境界変更して,富山県に合併することに決議し,内務大臣大隈重信に陳情書を提出した。越中国と飛騨国の境界争いが江戸時代から続いており,飛騨側の納得を得られるわけがなかったが,いみじくもムルデルは県会決議を遡ること30年前にこの問題を指摘していた。

 ※戦前は県議会とは言わない。

(4)岩伏運河構想(東岩瀬・伏木間)

 「…伏木から約五十町離れた射水川の東に放生津潟という名の湖水がある。更にこの湖の東側にある川をたよって神通川と結んだらどうか…」という考えも示した。東岩瀬港と伏木港をつなぐ運河構想を示唆したのである。大正8年(1919年)東岩瀬と伏木をつなぐ射水平野の首長や有力者が協議して「岩伏運河」を建設し,長さ17km,幅55m,水深2.7mの運河を建設し,その際に出た土砂で射水平野の湿田を乾田化しようという案をたてた。ムルデルの構想を後世の人々が知っていたとは考えられないが,ムルデルの先見性を示す考え方であった。

 ムルデルやデ・レイケの治水思想の根本にあったのは,「治水は治山」であるという考え方である。富山県の川の多くは急流河川であり「山を流す川」である。そのことから彼らの考え方は極めて重要な指摘と言わなければならない。しかもこの徹底を図るためにムルデルは,国重県令に乱伐や焼畑は法律で禁止し,違反者に対して罰則規定を設けよと要望している。また河川の一貫治水はやがて「一級河川」を指定して治水を国直轄事業とすることになった。

5.ムルデルの業績

 在日10年間におけるムルデルは数多くの治水事業や港湾整備にかかわった。その中で現在にいたるもその施設が100余年前の姿で残っているものを紹介しよう。

(1)熊本県三角西港

 宇土半島突端に築造された。1877年(明治10年)西南の役で荒廃・疲弊した熊本県の復興と物資の交流を盛んにするために築造された港である。山に囲まれた風浪の少ない天然の良港で,水深36mもある。築港工事は1884年(明治17)5月に始まり1887年(明治20)6月に完成した。三角西港の特徴は岸壁だけでなく背後の都市部も含めた計画都市であり,岸壁も都市を取り巻く環濠(水路)もすべて石積みで建設されているところにある。

 岸壁は長さ730m,高さは6.3mあって16段の石積みである。うち6段以下が海中に没している。干満の潮位差が大きいことを解消するために3か所に浮桟橋を設け浮桟橋と岸壁の間には可動式の橋が渡されていた。浮桟橋は長さ27m,幅5.5m,高さ1.8mの箱形で外面にトタンを貼って海虫の害を防いだ。港と環濠水路は無傷で当時の姿をそのまま残している。

 しかし,素晴らしい施設の三角西港も機能したのは10年余であった。1899年(明32 年)九州鉄道三角線が三角西港まで敷設されず2km手前の東港で止ったのである。それ以後西港は立派な施設を持ちながら漁港として機能しただけである。しかし,それは幸いしたというか,120年前にムルデルによって築造された港が昔時まま残りオランダ技術を伝える貴重な文化遺産となった。

(2)利根川と江戸川を結ぶ利根運河

 関東の物産を始め東北の米・木材や北海道の昆布・塩干物は100万人の大消費都市江戸に大量に運ばれた。東北・北海道から千石船で運ばれた物産は,銚子港に陸揚げされ高瀬船に積み替えられて利根川を遡上し,関宿から江戸川に入り南下して行徳を経て江戸に運ばれた。このコースは三角形の二辺を通り,夏場渇水期には舟行が困難となる欠点を解消し利根川船戸と江戸川深井をつなぐものであった。

 長さ8km,水路幅18m,水深1.6mと両側堤防内側に1.8mの舟曳道が設けられていた。

 1888年(明治21)工事起工し1890年(明治23年)に完成した。運河を通った船は1937年(昭和12)までの統計で103万余隻にのぼり,年平均2万1500隻ほどあった。最盛期は明治時代で以後次第に衰微した。それは国鉄総武線・成田線・常磐線の開通による影響からである。昭和10年代になると水運として利用されることはほとんどなく「死の運河」に近くなった。国は1972年(昭和47)4か年の歳月と36億円かけて改修工事を行った。導水路とし活用され,水辺公園として蘇り沿岸の人々のいこいの場となった。

 1890年(明治23年)任期満了したムルデルは帰国命令をうけ,苦心惨たんして完成した運河竣工式に列席することがかなわなかった。非情な官僚の仕打ちであった。ムルデルは日本を去るにあたって,万感をこめて祝詞を送り竣工式典で代読された。

 「…余ガ多年関係シタル利根運河工事モ今ヤ着々其歩ヲ進メ,其竣工,盛典ヲ見ルハ蓋シ遠キニアラサルヘシ。余ハ其盛典ニ遭遇スルニ及ハスシテ帰国ノ途ニ上ル,其遺憾言フニ余リアリ…」

 この無念な心情を思いムルデルの功績を讃えて沿岸の流山市・野田市・柏市の人々は,1985年(昭和60)「ムルデルの碑」を建て彼の顕彰をした。

ムルデル参考文献

1.越中五大川蘭人工師見込書(随行者平井順吾写)

2.ムルデル顕彰碑建立記念誌 昭和60年4月刊

3.三角西港の石積埠頭 昭和60年3月 財団法人日本ナショナルトラスト

4.「流山研究・におどり」3号 <利根運河特集> 昭和59年刊

5.「向上」4号 <ムルデル特集> 昭和60年刊

6.日蘭学会会誌第9巻第2号 「お雇い外国人としてのオランダ人」

7.利根運河(新・旧) 北野道彦著 1985年3月

8.ムルデル越中ノ五大川巡回実施検査見込上申書 前田英雄 平成3年11月富山史壇106号

 

 

加賀能登の特産・伝統野菜(4)

石川県農業情報センター
主任農業専門技術員
今井 周一

6.ヤマノイモ(加賀丸いも)

来歴

 加賀マルイモは,三重県で古くから栽培されていた津田イモが明治17年に松坂イモと改称され,明治32年さらに伊勢イモとして名古屋方面に出回ったものが導入されたと云われている。この伊勢イモは,ヤマトイモから分化したものと言い伝えがあることから,母体はヤマトイモと考えられている。この地域で初めてマルイモが導入されたのには諸説がある。いずれも大正時代であるが,一つは,根上町五間堂の沢田仁三松,秋田忠作の両氏が,二つには長田町の村田伝右衛門が自家野菜として伊勢イモを持ち帰り栽培したのが始まりであるといわれている。その後,栽培が周辺集落ヘ普及した。他の集落ではこのイモのことを五間堂イモと呼び,昭和23年に名称を加賀マルイモと改称し,今日に至っている。

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栽培の歴史

 マルイモは昭和3年頃からようやく栽培が普及し,昭和9年の手取川の氾濫により砂壌土が堆積し,マルイモ栽培に最適地となり,栽培農家が増大したと伝えられている。戦時中は米の増産のため一時影をひそめたが,戦後いち早く栽培が復活し,昭和23年に加賀マルイモと改名し,京都,大阪,姫路,名古屋,豊橋などの市場ヘ出荷した。各市場で根上町・小松市板津地区の特産物として名声を博した。その後,兼業の進展に伴い,労働力の減少と,加えて価格の変動などで次第に作付面積は減少した。

 昭和45年に米の生産調整が始まるや,関係機関が転作物として普及を図るとともに昭和46年に町役場,農協と連携を取りながらこれまでの個人出荷を完全共販に導いたことから作付けが大きく伸びてはいるものの,近年は価格の低迷から作付けが伸び悩んでいる。

主な産地と旬

 産地と収穫期:小松市,寺井町,根上町,鶴来町,鳥屋町・鹿西町・鹿島町/11~12月

 旬:秋冬

7.キンジソウ(金時草)

来歴

 和名はスイゼンジナ(水前寺菜)といい,キク科サンシチソウ属の多年草で熱帯アジアが原産である。日本へは18世紀に中国から渡来したものであるが,九州の熊本市で古くから栽培されていたのでこの名がついたとされている。このスイゼンジナが江戸時代に,北国である石川県で栽培されていた記録(農業開匳志 著者農学者村松標左衛門1775年頃)がある。しかし,商品としての栽培が広がり始めたのは昭和初年頃のことで,以来70年間,全国的に目だって栽培されているのは金沢だけである。

 ところでキンジソウの名の由来であるが,これは葉の裏面の色が「金時豆」に似たうつくしい赤紫色であることから「金時草」と表記されるようになり,これをキンジソウと呼ぶようになったようである。

栽培の歴史

 キンジソウは,金沢市花園地区の山間部の地代町,俵原町,浅丘町を中心とした数集落で約3ha栽培されている。この花園地区に初めてキンジソウを導入したのは地代町の木びき職人,中田龍次郎氏が大正時代に県内のどこかから持ち帰り,一株だけ畑に植えたのが始まりである。息子さんの中田義久さんが隣村から金沢近江町の八百屋に嫁いだ人からの薦めで昭和初期から料理屋向けとして栽培が始まった。中田さんの出荷によって村の人も関心を持ち,次第に栽培が広まっていった。しかし,そのころは自家用野菜として作られ,昭和37年頃から地元金沢市場へ出荷されるようになり現在も続いている。

品種の特性

 茎は円柱形でよく分枝し,紫褐色。菜は長楕円形で先が尖る。表は緑,裏は紫色で,柔軟・粘液質である。繁殖は株分けと挿し木による。挿し木は茎を10~15cmに切り,下の葉を取って挿す。発根は容易である。若い茎葉を摘採・収穫する。ぬめりと独特の風味がある。

主な産地と旬

 産地と収穫期:
  金沢市花園地区/6月下旬~11月中旬
  高松町(米林利栄)/6月下旬~11月中旬

 旬:夏~秋

8.ネギ(金沢一本太ネギ)

来歴

 詳しい来歴は不明だが,「石川県園芸要鑑」(大正5年)によると金沢ネギは別名「マツエタ葱」とも言われ,原種は長野県松本地方より導入したものとされている。金沢一本太ネギは,金沢一本,金沢太ネギまたは金沢根深(ネブカ)太ネギとも呼ばれ,北陸以北における寒地型の一本ネギとして,一世を風びした。

栽培の歴史

 金沢一本太ネギは,明治末期・大正・昭和30年代半ばまで金沢市有松,三馬,米丸,崎浦地区で精農家によって自家採種により金沢ネギとして栽培されてきた。その後,昭和37年に金長ネギが発表されるや金長ネギ一色になったものの昭和55年まで数戸の農家で栽培を続けてきた。現在は,金沢市金城・富樫地区で数戸の農家によって伝統野菜の保存として栽培されている。

品種の特性

 「金沢一本太ネギ」は,その名のとおり,分けつせず,軟白部は太くて長く,肉質の柔らかい品種である。標準の大きさは,総重1kg弱,草丈110cm前後,軟白部の長さは25cm,茎径2cm程度である。品種群では加賀群に属し,越冬性が強く,耐寒性及び耐病虫性とも強い。葉はやや濃緑色を呈し,生育はきわめて早い。現在,種子は「加賀一本太」で市販されている。

主な産地と旬

 産地と収穫期:金沢市金城・富樫地区/11月~3月

 旬:秋冬

 藩政時代の野菜栽培は,城下町金沢及びその近郊において行われてきたが,明治・大正に入ると能登地区の七尾市,珠洲市,羽昨郡市や加賀地区の加賀市,根上町などでも栽培が行われるようになり,ようやく野菜栽培が県下に広がり始めた。

 

 

我が国の農産物需給の実態

チッソ旭肥料株式会社 技術部
顧問 安田 環

Introduction.

 我が国の食料自給率はカロリーベースで40%を割り,穀物ベースでは26%にまで低下している。この基礎であり,かつて聖域でもあったコメですらWTO協定のミニマム・アクセスとして65万トン(2000年)の輸入を余儀なくされている。一方,飼料や油料農産物の輸入量はおよそ3200万tに達している。農水省は2010年の食料自給率目標を現在より5%上げて45%に設定した。しかし,耕地面積の減少,単収の頭打ち,転作作物の作付け面積の微増,加えて食べ残し等のロスによってその実現はかなり厳しいように思われる。

 コメは1970年前後には330万haに作付けされ,1300万t~1400万tの収穫があり,1人当り年間100kg以上を消費していた。その後ジヤンクフッドと外食産業の進出でコメ離れが進み現在は年間1人当り供給量で65kg,消費量で60kg まで低下している。そして,裕福になるにつれ食物連鎖の階段を上るようになり,肉や油の消費が増えている。その結果,脂肪の摂り過ぎ等による栄養摂取のアンバランスが生じ,肥満による健康障害も起きている。一方において,インド亜大陸とサヘル以南のアフリカでは依然として人口は増え続け,半数の人が飢餓に苦しんでいるという。貧困と配分が大きな問題となっている。

1.主用農産物の需給

 主用農産物の圏内生産量と輸入の実態を表1及び図1に示した。

 コメの生産量は生産調整による減反により9百万tから1千万tであるが,ミニマムアクセスとして65万tが輸入されている。輸入先国別では50%がアメリカ,19%がタイ,15%がオーストラリア等となっている。現状からすれば,食用としておよそ820万t,その他加工用と種子用を加えても900万tあれば十分と思われる。適正備蓄水準を150万t±50万tとしているが,この量は恒常的な量であるので,900万t以上穫れると余剰米がでるということになる。ただし,自給率を上げるには1人当り年間80kg程度の消費は必要で,それはまた栄養バランスの適正化になり,生産調整問題の解決にもつながる。

 コムギの国内生産量は転作奨励によって増加の傾向にはあるが,輸入量は一向に減っていない。パン用に硬質コムギが好まれ,国産の軟質コムギが秘主されていることも一因と思われる。一層のコムギ振興策を講じ,輸入量の削減を行うことが必要である。輸入先国別シェアーはアメリカが52%,カナダが29%,オーストラリアが19%となっている。

 トウモロコシは国内産はほとんどゼロに等しく,毎年1千600万tが輸入されている。そのうち1千150万tは飼料用に仕向けられている。輸入量の大部分はアメリカからである。したがって,日本の畜産は全てアメリカに依存しているといってよい。この大量の飼料輸入は畜産排泄物問題として環境保全上大きな問題となっている。

 ダイズは国内生産量が3%程度であったが,近年ようやく上向き傾向にある。しかし,それは微々たるもので,480万t以上が毎年輸入されている。輸入先国別シェアーはアメリカが78%,ブラジルが10%等となっている。

 牛肉は72万tが輸入され,そのうちアメリカが48%,オーストラリアが46%を占める。これを飼料に換算すると792万tに相当する。

 豚肉の輸入は金額的には牛肉を上回るが,量的には65万tである。輸入先国の1位はデンマークでシェアーは32%,次いでアメリカの28%,カナダの17%,メキシコの6%となっている。これも飼料に換算すると,455万tに相当する。

 以上見てきたように,コメ以外はほとんど輸入に頼っており,それも特定国のシェアーがきわめて大きいことは,食飼料の国際需給の変動や輸出国の政策如何が大きな影響を及ぼすもので,きわめて不安定な状況にあるといってよい。

 以上の輸入農産物をNに換算すると,玄穀で62万t,肉類で18万t,計80万tとなり,この他グレーンソルガムや魚介類等を計算すると,総計95万tにのぼる。

 1960年から最近までの輸入農産物の上位10品目を見ると(表2),かつては穀類がトップを占めていたが,最近は豚肉や牛肉などの輸入が上位を占めている。また,近年ではアルコール飲料や生鮮野菜の輸入が増えていることが特徴である。

2.野菜類の需給

 野菜の全体の輸入状況を年次別に見ると(表3),生鮮野菜を中心にこの10年間で倍増し,さらに年々増加の傾向にある。

 それらの内訳と圏内生産量との対比を表4に示した。量的に多いのは,タマネギ,カボチャで,セーフガードで問題となっているネギはこの2~3年で急増し,4万tを超えるまでに増えている。輸入先国を見ると,カボチャはニュージランド,タマネギはアメリカが主体で,ネギとシイタケ(林産物)は中国となっている。アスパラガスはオーストラリア,アメリカ,メキシコ,フィリピン等で,国産量に匹敵する量が輸入されている。

 ネギ同様問題となっているシイタケも国産量の56%を占めるまでに増大しており,もし消費量が一定とするならば,生産者にとって一大脅威といえよう。これまで,輸入量が一定を保っているような野菜,例えばカボチャやアスパラガスなどはそう問題にはならないように思われる。タマネギは20万t以上が輸入されており,端境期の夏場に出荷できるような国内生産体制を確立することが,輸入抑制につながるものと期待される。

 その他の野菜については表5に示したように,どの野菜も増加傾向にある。

Conclusion

 以上我が国における食飼料の生産と輸入の実態につき記載した。これらに関し,食料自給率向上の観点から,セーフガードの是非の観点から等いろいろ論議のあると思われるが,それは読者自身の判断にゆだねることとする。ただ,途上国からの輸入野菜は外貨かせぎのため,輸入国の規絡品のみを輸出し,はねものを自国消費といった現実のあることを付け加えておきたい。

 なお,これに関する参考資料のいくつかを下記に示す。

●農林統計協会:食料・農業・農村白書,同附属統計表

●農林水産省統計情報部:作物統計,ポケット農林水産統計

●農林水産省:農林水産物貿易レポート

●真崎正二郎:日本の輸入食品,幸書房(1999)

●安田環:食料自給率70%を目指せ,季刊雑誌「肥料」84,85,86,87(1999~2000)