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§スーパーロング施用による半促成トマトの長期穫り栽培について
JAあすなろ トマト部会
部会長 桑田 税
§北海道における冷害と施肥
前 ホクレン農業協同組合連合会(JAグループ)
管理本部 役員室
農学博士 関矢 信一郎
§富山の治水に貢献した蘭人技師(ムルデルとデ・レイケ)
(二)ヨハネス・デ・レイケと常願寺川治水-その2-
富山県郷土史会常任理事
デ・レイケ研究会員
前田 英雄
JAあすなろ トマト部会
部会長 桑田 税
当農協管内は,青森市の中心部から西側に位置する都市型農業地帯です。
年平均気温10.8℃,年間日照時間1,620時間,年間降水量1,232mmとなっており,北部の海岸地帯では6月から7月にかけてのオホーツク海高気圧がもたらす偏東風(ヤマセ)の影響を受けやすい。また,土地は湿田,半湿田が大半を占めていますが,かなりの区域が土地改良事業の完工により改善されています。当地区から市の行政・商業中心部まで20~30分です。又東北自動車道青森ICにも20分位と近く,東西に走る国道7号バイパス及び国道7号から北側に伸びる国道280号バイパスと交通体系に恵まれています。

半促成トマト,夏秋トマト,抑制トマトの3作型を30a栽培しています。
3作型にスーパーロングの100日タイプを使用しています。特に半促トマト栽培は,この地域で限られた期間での長期穫りを目ざしております。
半促成トマトの播種は3月10日,品種は,品質の良い桃太郎エイトが主流ですが,抑制トマトには,ヨークを取り入れています。

桃太郎系は,四段以降どうしても樹勢が低下しやすいので,従来の肥料では後半まで樹勢を維持できませんでした。そこで,2年前より100日タイプのスーパーロングを使用しています。施肥量は10a当りN成分で20kgとし,内訳は,スーパーロングを全面に10kg,ロングショウカルとCDU化成(15-15-15)を5kgずつを溝施肥とし,後半の樹勢を維持したいためにあえて2段施肥しています。(CDUは土壌ECにより加減)(ロングショウカルは尻腐れ防止のため)
桃太郎エイトを50~55日苗の若苗定植とし,活着後はできるだけ潅水を控えて根をじっくり深く張らせる様に,3段花房着果まで細目に樹勢を維持させています。
そうする事によって葉柄の長さも大きくならず,初期は,すっきりした樹勢になり,一回目の追肥は3段花房の樹勢を見て的確に追肥するか判断しています。
3段花房が着果している状態でも樹勢が衰える気配がなければ,一回目の追肥は控える様にしています。
5段目開花・着果時点でようやく少し先細りになってきましたので一回目の追肥を生育を揃える意味でS・6・4・6を一株ごとに深さ20cmのところに施しました。
一段目から5段まで着果しているのであとは樹勢を落とさない様に,又5段目以降より気温も高目に推移してきましたので,潅水量を少しずつ増やし一日置きにトミー液肥の300倍を自動潅水しております。
それでも細くなる様であれば,メリットの青を5日に一回の割合で2回程葉面散布し畦の方からは,スーパーノルチッソを施して樹勢を回復させています。
8月中,下旬頃より気温・夜温が低くなってきましたので,潅水の量や,間隔を長くし裂果防止に努め,ハウスの両サイドを閉める様にしています。
9月中旬頃に最終花房より2葉残し芯止め後Ca剤を葉面散布し畦の方からは,液肥を2回程施し最後の潅水としています。
後半の,8段目当たりからでも,樹勢が低下しなかったのは,全面散布もさる事ながらロングの2段施肥の効果があったのではないかと思われます。
計画通りの収量でして収穫の打ち切りは,10月一杯,1段1tの収穫で13段の13t穫りで終了しました。

全期間を通してほとんど予防散布を励行し,基本として梅雨前は殺菌剤を主とし,梅雨後は殺虫剤を主としていますが,今年よりマルハナバチを導入し,ハウスの谷間及びサイドにネットを張りめぐらしましたので,タバコがの発生は見られませんでした。スリップス類の対策についてはハウス内に予察効果があると言われている青と黄色のトラップをつり下げたところスリップス類は,ほとんど発生せず被害も出ませんでした。
特に気をつける点は,圃場の周辺の雑草刈りを徹底して行うことです。
後半に,少々の葉カビがいくらか見えましたが,特に慢延する事がなく,葉カビ防除に対しては,2回程の薬散で抑えました。
基本的には,10日に一回の割合で予防散布に努めています。
72穴のペーパーポットを使用し育苗日数を20~25日位を目安に3.5葉苗を直接定植した場合,活着後初期より過繁茂になりやすい。そこで,スーパーロングを使用したところ,初期の過繁茂を避ける事ができました。4段目から生育に衰えが見えましたので,従来通りのS・6・4・6の追肥,また葉面散布剤やスーパーノルチッソで生育の回復や尻腐れ防除に努めました。
まだ使用して2年目なので,来年は,もう少し持続性の長い140日タイプを使用したいと考えております。
前 ホクレン農業協同組合連合会(JAグループ)
管理本部 役員室
農学博士 関矢 信一郎
北海道の稲作は明治以来,3~4年に一度の冷害を受けて来た。しかし,耐冷性品種の開発と栽培技術の改良によって収量水準は著しく向上している。因みに未曾有の大冷害とされている平成5年(1993年)は,作況指数40,収量203kg/10aであったが,この収量は大正期(1912~’25年)の平年収量とほぼ同水準であり,この頃の大冷害,大正2年(’13年)の収穫は12kg/10aであった(図1)。

平成5年の冷害の後,農水省は農家にアンケートによって冷害対策技術の調査を行っている。この結果のうち被害の軽減及び発生にかかわった要因をまとめて表1に示した。軽減要因では施肥対策が最も多く,水管理,地力対策が続いている。一方,発生につながった要因としても,施肥,地力対策が大きい。この様に地力・施肥は冷害に深くかかわっている。

ここでは,北海道における稲作の冷害と施肥について現地や圃場試験の事例を中心に述べてみたい。
なお,施肥,イモチ病,冷害には密接な関係があるがここでは触れない。
北海道において施肥と冷害のかかわりが何時から注目されたかは明らかでない。開田当初の5~10年は無肥料であったため見過ごされていた可能性もあろう。一方,東北地方出身の開拓者の中には出身地での経験はあったとも考えられる。
北海道庁の農務局長を勤めた酒匂常明の「北海道稲作論」には,明治25~28年(1892~5年)の白石試作場の成績がある。この中の肥効試験で,冷害年だった26年では,鰊粕を施用した3つの試験区の収量が他の年に比べ著しく低くなっている。しかし,この著者はこの点について何も言及していない。全道的にも殆ど無肥料だった時期だけに施肥と冷害の関係は研究者も注目しなかった様である。
明治30,35,38,39年(1897,1902,05,06年)及び大正2年(’13年)は冷害であったがその後,昭和2年(’15年)を除き大正・昭和初頭を通じ平年作が続いた。そのためもあって北海道の水田は限界地帯を拡げていった。昭和6年(’31年)以降続いた冷害は,限界地帯に大きな被害を与えると同時に,全道的に多肥傾向にあった本道稲作に冷害と施肥の関係を注目させることとなった。
昭和10年代の施肥標準では,冷害出現の危険性から地帯を3段階に分け,施肥量に差をつけている(表2)。

更に留意事項として,有機質肥料や石灰窒素は低温下では分解がおそく,肥効の発現が遅れて生育が遅延し,登熱歩合低下のおそれがあるとしている。
また,従来から三要素試験の無りん酸区は冷温年での減収が著しいことから,りん酸と冷害の関係が注目されていた。施肥標準の中では,無りん酸区の出穂期,登熱期が冷害年では3~4日遅れるとして,冷害対策としてのりん酸施用がすすめられている。
大戦中及び戦後の数年間は肥料不足下での増産が求められ,冷害対策は関心がもたれなかった様である。肥料が潤沢となって来た昭和28,29,31年(1953,’54,56年)は冷害年となった。
昭和32年(’57年)道農務部は新たに施肥標準を設定した。ここでは全道を主として気象条件から11地帯に区分し,冷害の危険性を示唆している。冷害対策は特記していないが,ほぼ収量に応じた窒素・カリと対照的に,りん酸は全道ほぼ一律で,これは冷害対策とみることができよう。
昭和34年,戦後普及していた全量全層施肥を,初期生育を遅らせるとして一部を表層施肥することが奨励された。以降,全層と表層の組合せが検討されたが,省力の方向の中での普及は不充分だったと思われる。
北海道の施肥は全量基肥を原則にしていたが,収量水準が向上し施用量が増加すると冷害の危険性の増大が問題となった。これに対応するため,昭和38年(’63年)分施法が施肥標準に導入された。これは施肥標準の窒素基準量の80%程度を基肥として施用し,天候の見極めがついた後,残りの20%を施用するものである。以降,現在まで水稲施肥の原則となっている。
その後,全国的な流れの中で北海道でも基準量を超える追肥についても検討が行われ,昭和45年道農務部の指導事項になった。ここでも分施法が原則となっている。この時期,多収と冷害対策を両立させる追肥法として,止葉期追肥法,漸増追肥法なども提案された。
しかし,追肥にせよ,分施にせよ現場での普及は一部に限られていた様で,平5冷害の被害軽減の優良事例として分施法が改めて紹介されている様である。
現行の施肥標準は平5冷害の後,平成7年(’95年)に設定されたものであるが.良食味生産を主要な目標としており,冷害対策として特記されているのは分施法だけである。ほかには追肥は不安定性を増し食味を低下させるとしており,初期生育不良地帯での側条施肥又は表層施肥が推奨されているくらいである。
この後,平成9年に乾土効果を秋又は春先の採取土壌から推定し,窒素施用量に勘案する方式が採用されている。これらはいずれも良食味生産のため,減肥を前提とするものであるが,結果的には冷害対策となっている。
冷害に及ぼす施肥の影響については,実験的な解析には限界があり,圃場試験などの冷害年と平年との比較が中心となる。従って,種々な解析が可能なデータは少ない。ここでは,北農試※が昭和44年(1969年)からほぼ15年間に実施した種々な施肥試験成績のいくつかを取り上げ,紹介したい。なお,この圃場の土壌は湿性火山灰土,供試した品種は中晩性のユーカラである。15年のうち,’69,’71,’76,’80,’81,’83年が冷害年である。
※北海道農試,現(独)農業技術研究機構,北海道農業研究センター。
基肥窒素施用量を0~200kg/haとし,40kg毎に5区を設けた。’69~’81年の収量を図2に示す。平年では160kg/ha区(以下N16区)で最高収量を得ているのに対し,冷害年ではN4~12区でほぼ同水準,N16以上の区ではN0区より低くなる年もあった。この結果からでは,基肥施用量は12kg/10aが限界となる。

1969~72年の4年間で,’70,’72年が平年,’69,は障害型の,’71年は遅延型の冷害年であった。図3に示す様に窒素用量に対する反応は,冷害の型によって著しく異なっている。収量でみると,障害型の,’69年ではN4~8区が最も高く,遅延型だった’71年はN4~20区迄ほぼ同じ水準である。(ここでは屑米も収量している)。この様に施肥限界も冷害型によって異なって来る。

収量を構成要素でみると図4の様になる。まず,籾数の年次間差は高窒素レベルでややふれるが,窒素用量に対しほぼ直線的に増加している。稔実歩合は,障害型の’69年では窒素用量と共に著しく低下しているのに対し,遅延型の’71年では全体としては低いものの,窒素用量に対しては,平年とほぼ同様な傾向を示している。一方,登熱歩合では,’71年も窒素用量と共に低下が著しく,平年との差が明らかである。

低温の被害は障害型で著しいことから,不稔発生に関する研究は寒地稲作の中心的な課題となっている。この結果,多くの成果が出されているが,稲体の窒素栄養-窒素施用量と冷害との関係については全面的な解明に至っていない。
一方,不稔発生機構の研究から,穂ばらみ期の深水潅漑が不稔発生防止に有効であることが立証された。そこで,畦畔をかさ上げして穂ばらみ期の水位を20cm程度によげる技術が普及した。また,現在,北海道では良食味米生産の上から窒素減肥が奨励されており,これは結果として冷害対策になっている。
冷害年におけるりん酸施用の効果は前述の様に三要素試験の成績から注目され,りん酸多肥は冷害対策技術とされていた。
冷害のうち障害型冷害にはりん酸多用の効果すなわち,不稔発生防止効果のないことが,実験的に証明されている。
一方,遅延型についての圃場試験のデータを図5に示した。この試験はりん酸残効試験区を含む種々な試験区の幼穂形成期の土壌中の有効りん酸濃度(ブレイNo2)と止葉期の稲体のりん酸含量及び収量を調べたものである。土壌中の有効りん酸濃度が上昇すると茎葉のりん酸含量も高くなるが,30mg/100g乾土,0.9%で頭打ちとなる。

収量も同様で4.5t/haが限界である。なお,この試験区の窒素基肥量は80kg/ha(N8)で,追肥はされていない。
この様に土壌中の有効態りん酸がある水準以下では,りん酸施肥,多用の効果が認められる。特に低温条件下では,土壌りんの有効化が遅れることもあって施肥りんの効果は高いと推定される。しかし,現在土壌中の蓄積りん酸が高まり,10mg/100g乾土(トルオーグ)以上とされている中では有効性は高くない。北海道でも冷害年のりん酸施用効果については’60年以前の報告に多い。
冷害とカリ,特に障害型冷害との関係については従来から見解が分かれている。すなわち,カリの施用が不稔発生を抑制する,助長するの両論があるが試験例は少ない。平5冷害(1993年)では三要素区無力リ区に不稔が多かったとの報告があり注目されている。
冷害の被害調査で,被害を軽減した技術として堆肥の施用があげられることが多い。研究としても実験的に堆肥施用が不稔率を低下させたとする報告はある。
しかし,多くの圃場試験のデータでは,特に軽減したとするものは少ない。表3は北海道及び東北地域において各道県農試の堆肥施用試験区と対照区の収量差を比較したものである。これによれば,北海道では堆肥施用の増収効果は平年と冷害年に差がなく,変動係数もほぼ同じである。このことは堆肥には冷害抑制に特別な効果が認められないことを示している。東北地域でもほぼ同様である。

いくつかの堆肥連用試験成績の解析の結果,堆肥施用の効果とされているものの殆どが養分供給で説明がつくとされている。冷害についての効果もほぼ同様なことと考えられる。
堆肥施用は窒素供給量を増し,稲体の窒素含量を高め,着粒数を増加させる。図6に稲体の窒素含量と不稔発生の関係を示した。1976年の障害型冷害年において,止葉期の茎葉の窒素含量と不稔歩合の関係をみると,堆肥施用の有無にかかわらずほぼ同一線上にあり,両者に特に差はない。

図7に全籾数と稔実歩合の関係を示した。この場合も堆肥区と無施用区はほぼ同じ直線上にあり有意差はない。このことは,堆肥施用の効果は全籾数を増すこと-室素供給増で説明される-であって,不稔歩合を低下させるものでないことを示唆している。

従って,稔実粒数は堆肥区が多くなり,出稔後の窒素供給が有効に作用すれば,増収の可能性はある。しかし,これも窒素供給量の増加で説明できよう。
現在,北海道の生産現場の窒素施用量は前号で述べた様に急減しており,平成11年現在,施肥標準を下まわっている。これは食味向上のためであるが,結果としては冷害対策となっている。
北海道では平5冷害以来8年,冷害年はない。これは気象条件が比較的良好なことが主であるが,良食味米として採用された「きらら392」が耐冷性であること,障害型冷害対策として深水潅漑が普及したことがあげられよう。
当分の間,良質米生産下でこの様な消極的な冷害対策が続くことになるものと思われる。
しかし,堆肥多用を前提とする環境保全型農業や省力のための直播,区画拡大,緩効性肥料などには冷害対策が未検討のものが多く,今後の課題である。
●酒匂常明:北海道稲作論 耕読舎(1896)
明治農書全集 第一巻(1983)収録
●石塚喜明監修・星野達三編著:北海道の稲作 北農会(1994)
●農林水産省:冷害と稲作技術 全国農業改良普及協会(1994)
●北農会:北海道における水稲栽培の特質 北農会(1972)
●北海道農業教育研究会:北海道の水稲栽培法 淳文書院(1941)
●北海道農政部:施肥標準(1957~’95)
●関矢信一郎:水稲冷害と土壌肥料 土肥誌66巻 6号(1995)
富山県郷土史会常任理事
デ・レイケ研究会員
前田 英雄
デ・レイケの日本招聘理由は大阪港改修と淀川治水のための技術者の増員であった。大阪港には淀川上流から大量の土砂が流出して港の水深を浅くし機能をそこなっていた。淀川治水のために水源地帯の砂防工事が先決であった。彼の政府への報告書も「淀川改修の総工費の三分の二は砂防工事に使うべきだ」と断言した。
デ・レイケはわが国最初のオランダ式ダムを1875年(明治8年)淀川水系不動川(京都市山城町))築造した。126年を経た今もなお6基のダムが機能を発揮し,度々の水害を克服してきた。最大のものは高さ10m幅70mの規模で,表面を花こう岩で階段状に覆われたもので”鎧ダム”ともいわれている。また,デ・レイケは禿山の山腹砂防技術として斜面に藁をはみその上で松苗を植樹し山腹の崩落を防いだ。後に木曽三川にもこの工法を適用した。

坂井港改修工事は1876年(明治9年)からで,始め一等工師エッシャーが改修計画を立案した。しかしエッシャーは1878年(明治11年)にオランダに帰国したので,デ・レイケはその後を引き継ぎエッシャ一案を修正して改修した。坂井港は九頭龍河川口に位置する。九頭龍川はその名のように上流域は多数の支川にわかれているので崩壊土砂は多量に河口に運ばれた。また河口には冬になると強い偏西風がたえまなく吹いて砂浜の砂を運び,海岸部は砂丘となり河口も塞がれ港は水深1mしかなかった。
九頭龍川右岸から長さ540m幅9mの石積みの堤防を築き西風を防ぎ,対岸(左岸)は180mの粗朶による水制をつくった。河口の土砂はこの防波堤と水制によって川の流れる水の力だけで自然に海ヘ押し流され,水深3mを確保することが可能になった。1880年(明治13年)開港式を挙げた。港は昔の盛況を取り戻し,巨大な防波堤は今もその役割を果たしている。

木曽三川とは,木曽川,長良川,揖斐川のことで,三川が合流して海に注ぐ西濃地方はわが国有数の洪水多発地帯であった。洪水の原因は三川の合流という自然的なもの以外に,親藩尾張藩が築いた「御囲堤」にもあった。すなわち対岸美濃の堤防は「御囲堤より低きこと三尺なるべし」ということであった。木曽三川流域の住民は洪水に対して「輪中提」を営々として築いて水防共同体で身を護ってきた。
デ・レイケの木曽三川の治水計画は,三川の間に背割提を設け,分離して洪水が発生した場合でも他に影響を与えないようにすることであった。これに対して三川が合流したところで堤防をつくると舟が通れなくなると地元民の懸念があったが,デ・レイケは「開門」をつくれば解決できると退けた。

1878年(明治11年)彼は木曽川流域部の踏査,1880年(明治13年)上流部の水源地を踏査して,木曽川改修計画を1884年(明治17年)から1886年(明治19年)に完成した。工事は1887年(明治20年)に着工し,1900年(明治33年)に分流工事が完成した。この改修工事により水害常習地帯であった木曽三川沿線の洪水被害は大幅に減少した。
1987年(昭和62年)10月9日工事着工から100年を記念して木曽川船頭平公園にデ・レイケの壮大な銅像が建立された。この時デ・レイケの孫の手によって除幕式が行われた。

デ・レイケはオランダの首都アムステルダムの南方100キロメートル,オランダの最南部コリンスプラートという町で生まれた。彼の家は代々の築堤業者で彼も少年のころから家業にたずさわった。1867年(慶応3年)アムステルダムと北海を結ぶオランニエ閘門の工事現場の主任となって工事を成功させる秀れた技術者になっていた。この時彼をやがて日本に呼びよせるドールン(日本が雇用したオランダ技師長)が上司であった。しかもドールンはデ・レイケを高く評価したのである。1873年(明治6年)日本政府はオランダ技術者増員をドールンに依頼した。ドールンはかねて期待していたデ・レイケと来日希望を持っていたエッシャーとさらに若いチッセンを推した。
デ・レイケはオランダの首都アムステルダムの南方100キロメートル,オランダの最南部コリンスプラートという町で生まれた。彼の家は代々の築堤業者で彼も少年のころから家業にたずさわった。1867年(慶応3年)アムステルダムと北海を結ぶオランニエ閘門の工事現場の主任となって工事を成功させる秀れた技術者になっていた。この時彼をやがて日本に呼びよせるドールン(日本が雇用したオランダ技師長)が上司であった。しかもドールンはデ・レイケを高く評価したのである。1873年(明治6年)日本政府はオランダ技術者増員をドールンに依頼した。ドールンはかねて期待していたデ・レイケと来日希望を持っていたエッシャーとさらに若いチッセンを推した。
当時日本は欧米先進国の文明を受け入れることを急ぎ,近代国家として成長しようとしていたので大勢の知識人・技術者を雇用した。この人達を「お雇い外人」と呼んだ。彼らの来日の動機はさまざまだったが,幾つかのパターンがあった。
①本国での挫折 フェノロサ,ハーン
②日本への積極的関心 エッシャー,ムルデル
③ 日本政府の厚遇
④先進国として文明・技術を伝えようとした使命感
デ・レイケは学歴が無かったが実地で鍛えた技術を持ち合わせたので存分に発揮したいという功名心と③の厚遇に引かれたのでないかと推測される。そのころオランダは不況の苦しい時代に遭遇しており,日本政府の高い給料に対する魅力があったのかもしれない。
1873年(明治6年)8月3日,デ・レイケとエッシャーはフランス,マルセイユ港を出航した。エッシャーはデルフトの王立アカデミーを出たエリートで一等工師として着任するので一等船室,デレイケは四等工師なので二等船室に入った。58日間の長旅を経て任地大阪に到着したのは同年9月25日であった。
デ・レイケはこの日以来,離日する1903年(明治36年)まで30年間にわたって在日し,30歳の壮年だった彼は60歳となっていた。
来日の長い航海はデ・レイケにとって生涯の親友となるエッシャーにめぐり会えたのである。エッシャーとは坂井港・淀川・大阪港の改修に共に従事し多くのものを学んだ。エッシャーもデ・レイケの技術を高く買いその人間性にも好感をもった。また,二人の家族も親しくつきあった。

1990年(平成2年)エッシャーの「日本回想録」が出版された。その中にデ・レイケについて詳しく好意に満ちた長文の内容が記されている。エッシャーがオランダの母親に宛た1875年(明治8年)10月14日の手紙の一部を次にのせる。
-前略- また,デ・レイケと一緒に働けるこの好機に,彼から沢山のことを学びたいのです。今日までの半生をこの道一本に生きてきた彼の技術は,実地で鍛えた筋金入りです。(彼の父は請負業で兼業農家を経営しています。)彼の実地に即応した工学知識は,折りあるごとに現場の技師に問い質して,さらに独力で修得した成果です。鋭敏な知性,好感を呼ぶ態度,天賦の観察力,かなり優れた記憶力,考え方も話し方も,そして文章を書かせても,独創的で核心を衝いています。彼の仕事は素早い上に,渾身を打ち込むので,当然ながら抜群の効果を収めます。エンジニアの学位を取得している者の中でも彼ほどの人物に会ったことはありません。
しかし,彼の来日を促したファン・ドールンを含めて誰もがデ・レイケを僕がするように高く評価しているわけではありません。高等教育を受けた技師の多くが公平な見方をしないのです。彼らは自分と同じように特権階級的教育を受けた者を優先偏好し,そうでない者に対して公正にふるまわないのです。 -中略-
平等精神と有用性の観点からも,僕はデルフト王位アカデミー出身の技師たちよりも,デ・レイケのような人材を高く買っています。勿論僕はデ・レイケと働くことによって対局させられる不愉快な一面があることを否定しません。僕は彼が自分の劣等を肯定する態度にたびたび応接させられています。しかし,このような不満も彼との親交がもたらしてくれる恩恵にくらべたら,取るに足らないものです。オランダでデ・レイケのような立派な師匠に出会える事はまずあり得ないでしょう。 -中略-
このような事情にかかわらず,デ・レイケの俸給が少すぎることを悲しく思います。少なくとも僕と同額であるべきです。日本への貢献度は僕のそれよりも断然上回っているからです。

デ・レイケは同僚のオランダ人技師が日本に一人もいなくなってから十余年も止まって,治水と港湾事業に尽くした。それはただ仕事への興昧や執念だけでなく,日本の風土に対する愛着,日本人への愛情があったからでなかろうか。日本滞在は実に30年の長いものであった。日本政府はデ・レイケの功績を高く評価し,外務大臣小林寿太郎から出された叙勲申請書には,「-上略-本邦ニ雇入シ以来今日ニ至迄前後三十年間,久シキ終始一日ノ如ク能ク其職任ヲ尽シ本邦ニ貢献セシ功労偉大ナリトス」と記述し,勲二等瑞宝章を捧げた。数多くのお雇い外人のなかで勲二等の栄誉を受けたものは彼の外に一人しかいなかった。

日本を離れた後も中国上海港で黄浦江改修の技師長として大きな実績を挙げた。晩年68歳でオランダ女王から「オランダ国師子勲位における勲爵士」という貴族に列せられた。
1913年(大正2年)アムステルダムで70年の生涯を終わった。
明治期の「お雇い外人」は数千人に達したが,中でもオランダ人土木技師団は僅かに10名であったが,彼らが手がけた治山・治水と港湾の改修・建設は日本の災害を減少させ,交易の発展に大きな貢献をしたことを銘記しなければならない。
1.デ・レイケとその業績 建設省中部地方建設局 1987年
2.デ・レイケ研究 第1~第11号 デ・レイケ研究会
3.富山県諸河川の明治24年7月大災害に係るデ・レイケの調査報告(和訳版)上林好之,市川紀一 1996年11,12月 1997年1,2月
4.川口居留地2 川口居留地研究会 1989年
5.明治以降本邦土木と外人 土木学会 1942年
6.内務省史 大露会 1980年
7.淀川百年史 建設省 近畿地方建設局 1974年
8.木曽三川治水百年のあゆみ 建設省 中部地方建設局 1995年
9.富山県治水と蘭人技師デ・レイケ 前田英雄 越中史壇104号
10.デ・レイケ来日の旅と川口居留地 前田英雄 富山近代史研究第15号 1992年
11.北陸政論(新聞)明治24年~26年の記事
12.蘭人工師エッセル 日本回想録 福井県三国町 1990年