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第568号 2005(H17).10発行

Click here for PDF version 第568号 2005(H17).10発行

 

 

歴史の中の肥料[4]
アンモニア合成への道(2)

京都大学名誉教授
高橋 英一

空中窒素の工業的固定を可能にした背景

 Crookesの演説に刺激されて空中窒素の工業的固定の研究が各国で行われましたが,それには化学と工業技術における進歩の助けがありました。

 一つは物理化学という新しい学問です。これは化学反応の研究に物理学の法則を適用するものですが,その一つに気体反応があり,科学者にとって将来性のある研究分野でした。例えば窒素ガスと酸素ガスを結合させてこれから硝酸をつくったり,窒素ガスと水素ガスを化合させてアンモニアにすることの理論的研究や,気体反応における触媒の役割などについて関心が高まっていました。

 もう一つは応用機械工学と電気工学の進歩でした。ドイツのリンデ(Carl von Linde)は1895年に空気液化機を発明し,空気から窒素と酸素を分離することを可能にしました。また1866年のジーメンスによる発電機の改良と1881年の最初の水力発電所の建設(ニューヨーク州ナイアガラ地域)により,大規模な電気エネルギーの利用が可能になってきました。その結果新しい電解工場の副産物として水素が入手できるようになり,またカーバイドが電気炉でつくられるようになりました。

 クルックスの演説から十年程の間に,電弧法(1904年),石灰窒素法(1906年),そして窒素ガスと水素ガスを直接化合させるアンモニア合成法(1913年)が工業化されましたが,その背景にはこのような19世紀後半の科学分野における進歩がありました。つぎにこれら三つの窒素固定法の誕生の経緯について述べたいと思います。

電弧法1,2)

 空気中には1容の酸素ガスと4容の窒素ガスが存在し常温では安定ですが,非常な高温にさらされると窒素ガスの酸化が起こります。それは空中放電(稲妻)という自然現象にもみられます。

 人工的には2000~3000℃の高温を電弧でつくりだすと,酸素と窒素が結合して酸化窒素が生じます(N2+O2→2NO-43200cal)。酸化窒素は高温では再び窒素と酸素に分解するので,直ぐに1000℃まで反応気体を冷却する必要がありますが,さらに温度を下げると酸化窒素は空気中の酸素を取り入れて二酸化窒素になります(2NO+O2→2NO2+27800cal)。このガスを吸収塔に導いて水と接触させると硝酸が得られます(2NO2+H2O=HNO2+HNO3)。

 空気中の窒素ガスと酸素ガスが結合する現象を最初に発見したのは,イギリスのプリストリー(Priestley)でした。1772年彼は底部を水で封じたシリンダー内に閉じ込めた空気に電気火花を飛ばしたところ*1,管内の水面が上昇し(つまり管内の空気の容積が減少し),水は酸性を呈することを観察しました。

 この現象を,空気中の窒素と酸素が電弧によって結合し,それが水に溶けたためであると解釈したのはキャヴェンデイシ(Cavendish)でした。彼は湿った空気に電気火花を通して硝酸を合成したことを,1785年に発表しています。これは今日電弧法(arc method)と呼ばれている窒素固定の発見でした。しかし当時,電気エネルギーを作り出すコストは非常に高く,電弧法を実用化することはできませんでした。

 19世紀の末になると,発明された発電機を水力で運転して多量の電気エネルギーを供給する,水力発電が開発されました。その結果電弧法で窒素固定を経済的に行えるところまで,電気料金を下げることが可能になりました。

 電弧法による硝酸製造の工業化を最初に試みたのは,アメリカのブラッドレー(Bradley)とラブジョイ(Lovejoy)でした。彼らは1901年に特許を受け,翌1902年会社を設立し,ナイヤガラ瀑布の水力発電を利用して硝酸製造を行いました。しかし希薄で不純物の多い硝酸を得たにとどまり,1904年には操業をとりやめました。

 工業化に初めて成功したのは,ノルウェーのオスロ大学物理学教授のビルケランド(Kristian Birkeland)と,水力発電計画に関わっていたエイデ(Sam Eyde)の二人でした。ビルケランドは強力な磁石で交流電弧を円盤状にする電弧炉を設計しましたが,この円形電弧は安定で,大量の空気を酸化することを可能にしました。1904年彼らはオスロ郊外に実験工場を建設し,安い電力を利用して硝酸を経済的に生産することに成功しました。ノルウェーの河川は流れが強く且つ安定しており,ダムによる水力発電が安価に行えることも幸いしました。

 電弧法の硝酸からは,肥料用に石灰で中和した硝酸石灰がつくられました。これはチリ硝石に対してノルウェー硝石と呼ばれます。しかし電弧法は多量の電力を要するので生産原価が高く,これが大規模に実施されたのは,水力電気が安価に得られるノルウェーだけでした。それもアンモニア合成法でアンモニアが安価に供給されるようになると,アンモニア酸化法による硝酸が利用されるようになり,電弧法は衰退してゆきました。

石灰窒素法1,3)

 鉱石に含まれている金を,青酸塩溶液を作用させてシアノ錯塩として取り出す青化法は,1846年ドイツのエルスナー(Elsner)によって発明されましたが,1887年イギリスのマッカーサー(McArthur)とフオレスト(Forrest)はその工業化に成功しました。そのため青化物が値上がりし,これを安価に得る方法が求められました。

 ドイツのフランク(Adolf Frank)とカロ(Nikoden Caro)は1895年頃からこれについて研究を始め,酸化バリウムと木炭の混合物を加熱して窒素ガスを通すとシアン化(青化)バリウムが生じることを発見し(BaC2+N2=Ba(CN)2),これにソーダを反応させて青酸ソーダをつくることに成功しました。

 しかしバリウム化合物は高価であったので,安価なカルシウム化合物に代えることにしましたが,たまたまカルシウムカーバイドの工業的製造法*2が確立されたので,これを用いて1000℃で窒素ガスを通じたところ,シアン化カルシウムではなくカルシウムシアナミドができました(CaC2+N2=CaCN2+C)。しかしこれを炭酸ナトリウムと溶融すると,シアン化ナトリウムに変わることをみつけました。1898年のことです。

 カロは1900年に,カルシウムシアナミドを過熱水蒸気で分解してアンモニアを発生させることに成功し,特許を得ました(CaCN2+3H2O=CaCO3+2NH3)。これは最初の工業的アンモニア合成といえます。このアンモニアを硫酸に吸収させると,石炭ガス由来の硫安(副生硫安)と同様に硫安(変性硫安)が得られます。

 さらに翌1901年フランクと彼の息子は,カルシウムシアナミドそのものも土壌中で分解して,尿素を経て炭酸アンモニアになり,そのままで窒素肥料として使用できることを実証しました。その結果1906年イタリーのPinna d’Ortaで,肥料としてのカルシウムシアナミドすなわち石灰窒素の工業的製造が始められました。その後世界各地に工場が建設されましたが,わが国もいち早く1908年に石灰窒素製造を目的とする日本窒素肥料株式会社が設立されました。

 石灰窒素法が急速に普及していった理由としては,技術が比較的簡単で,電弧法に比べて窒素固定1トン当たりの設備投資が安く,電気エネルギーも少なくてすんだこと,また原料もカルシウムカーバイド製造用の石灰岩と石炭だけであったことなどがあげられます。

 しかし石灰窒素も原料のカーバイトの製造に多量の電力を必要とするので割高であり,増産には限度がありました。これを解決したのは次に登場する窒素ガスと水素ガスを直接化合させるアンモニア合成法です。

アンモニア合成法(ハーバー・ボッシュ法)1)

 アンモニアを成分元素の窒素と水素から合成する研究は,1840年頃フランスのルニョール(Regnault)が,3容の水素と1容の窒素の混合ガスに電気火花を通して微量のアンモニアを得たのに始まるといわれています。19世紀末フランスのルシャテリエ(Le Chatelier)は,アンモニア合成反応[N2+3H2→2NH3+22kcal]は容積が減少し,発熱する反応であるから,平衡状態におけるアンモニア濃度は圧力が高く温度が低いほど大きいことを理論的に示しました。

 20世紀に入ると,ドイツのネルンスト(Nernst)やハーバー(Haber)らによってこのアンモニア合成反応の平衡が,種々の温度,圧力条件下で調べられました。1904年ハーバーは鉄を触媒に用い,常圧下1020℃でアンモニアを得ましたが収率はごく低く,またこのような高温条件で圧力を加えることは困難と思われたので,成分元素からの直接合成法でアンモニアを工業的に生産することは難しいという結論に達しました。

 一方ネルンストも1906年加圧下での平衡条件を検討し,40~75気圧,約700℃で微量のアンモニアを得ましたが,収率はハーバーより遙かに低いものでした。ネルンストは翌1907年,ハンブルグにおけるブンゼン協会の会合でこの結果を報告し,ハーバーに再実験を促しました。

 ハーバーは助手のロシニョール(Rossignol)とともに加圧下の実験を繰り返し,反応には約200気圧500~600℃が必要なことを明らかにしました。そして1909年の公開試験で,オスミウム触媒を用い175気圧550℃のもとで,容積比で8%のアンモニアを得ることに成功しました。しかしオスミウムが高価なため,なお工業化には無理がありました。

 1908年からハーバーを援助していたドイツ最大の化学会社BASF(Badisch Anilin und Soda Fabrik)は,1909年の公開試験の結果をみてその工業化に乗りだし,同社のボッシュ(Carl Bosch)とミタッシュ(Alwin Mittasch)を技術開発の責任者に任命しました。

 1909年から1912年までにミタッシュらは2500種類の物質の触媒としての性能をしらべ,6500回の実験を行って,磁性酸化鉄に2~6%のアルミナと0.2~0.6%の酸化カリウムを加えた触媒が有効であることを見出しました。

 一方ボッシュの役割は,ハーバーの実験室規模の装置を大型化することでした。ハーバーの反応器は長さ75cm,直径数cmという小さなものでしたが,ボッシュはこれを次第に大型化し,遂に高さ12メートル重量65トンにおよぶ反応装置をつくりあげました。

 これほどの大きさの装置は当時例がなく,それを高温高圧に耐える高品質の鋼でつくらねばなりませんでしたが,その技術は当時高度の鍛造技術を持っていたクルップ(Krupps)社が提供しました。またこの時,水素が高圧下で鋼を侵して脆くする現象(水素脆化)が発見され,その対策として低炭素のクロムヴァナジウム鋼を内張りして水素を吸収させる工夫がなされました。

 原料ガスの供給は,窒素ガスについては空気液化法(液体空気から沸点の差によって窒素を酸素から分ける方法),水素ガスについては水生ガス反応*3が採用されました。この一連のプロセスがハーバー・ボッシュのアンモニア合成法といわれるものです。こうして1911年,ルードヴィヒスハーフエン(Ludwigs-Hafen)に隣接するオッパウ(Oppau)に試験工場が建設され,1913年9月には年産7500トンの世界最初の工業規模の工場が建設されました。

 1914年8月,第一次世界大戦が勃発すると,火薬製造のために,アンモニアの酸化による硝酸の生産がオッパウ工場で開始され,アンモニアの生産も翌1915年末には年間5万トンに達しました。さらにライプチヒ近郊のロイナ(Leuna)に建設された第二工場が,1917年から操業を開始した結果生産は更に増加し,大戦終結時の1918年には10万トン近くになりました。

 ドイツは1913年まではチリ硝石の最大の輸入国でしたが,空中窒素固定工業の発達により戦後は国内消費を自給してなおかつ多量の窒素(1925年には8万トン余)を輸出するに至りました(表2)。

ハーバー・ボッシュ法の意義

 工業化された三つの空中窒素固定法のうち,電弧法は電力の消費量が最も大きく,石灰窒素法はその4分の1以下,さらにアンモニア合成法は16分の1以下で,電力消費量の少ないアンモニア合成法は次第に優位に立つようになりました。表3にみられるように1927年に生産された合成窒素中,電弧法は3%,石灰窒素法は22%であったの対しアンモニア合成法は75%を占めるに至りました。

 ハーバー・ボッシュ法は電弧法,石灰窒素法にくらべて安価な電力に依存する必要性が少なく,それまで不適当と考えられていた地域や国にも窒素固定工場の建設を可能にし,各国に肥料および火薬用の窒素を自給する手段を与えました。このことは硝石資源をもたないドイツが第一次世界大戦を戦う上で特に大きな意義があったため,戦後さまざまな疑惑を生むことになりました*4The following is a list of the most common problems with the "C" in the "C" column.

 またハーバー・ボッシュ法は,触媒と高圧合成技術をはじめて工業的に利用したものであり,大量の気体を高温高圧のもとで連続的に処理する巨大装置の建設は,優れた品質の鉄鋼の製造,新しい設計のバルブや気体圧縮機の生産など化学工学の急速な発展に寄与しました。

 さらにアンモニア合成技術の応用によって,化学肥料以外に合成樹脂,合繊維,合成ゴムなど多様な工業製品がつくられるようになり,アンモニア合成工業は多角的な発展を遂げました。

 ハーバーとボッシュは,アンモニア合成の工業化の業績に対して,それぞれ1918年度と1931年度のノーベル化学賞を受賞しました。

*1 1709年ホークスビーは,手回しの糸つむぎ機を改良してガラス球を回転させ,これに乾いた手を触れると電気火花が生じることを発見した。摩擦起電機の発明である。ついでこの静電気を溜めておく入れ物が,1745年にオランダのライデンの物理学者によって考案された。いわゆるライデン瓶である。1752年にフランクリンが雷の正体は電気であることを確かめたのも,このライデン瓶に雷電を溜めて調べた結果である(大沼正則著,科学の歴史 青木教養選書 1989 157頁による)。プリストリーはおそらくこのような装置を使って,電気火花を飛ばす実験を行ったと思われる。

*2 石灰窒素の原料のカルシウムカーバイドは,生石灰とコークスを電気炉に挿入して電気を通じて製造する。この方法は1892年にカナダのウィルソン(T. L. Wilson)が,アルミナの還元に金属カルシウムを用いるために,坩堝内で炭素電極によって石灰の溶融電解を試みたところ,偶然にカーバイドが生成することを発見したことによっている。更に1894年フランスのモアッサン(Moissan)によってその工業的製法が確立された。

*3 水生ガス反応は水の酸素を炭素に結合させて,水素を遊離させる反応(H2O+C=H2+CO)である。水生ガスは1000℃以上に熱したコークスに水蒸気を送って得られるガスで,主成分は水素44~52%,一酸化炭素30~42%で他に窒素2~6%,メタン0.5~1%を含む。

*4 ハーバー・ボッシュ法の成功が第一次世界大戦勃発の一年前であったため,大戦を予想してドイツ政府がその研究を援助したとか,研究の成功を知ってドイツ皇帝が開戦を決意したとかいう説が流布されたが,これらは敗戦国に対する戦勝国の偏見で事実に相違していることが指摘されている4)。ハーバー自身も,1923年12月4日,ブエノスアイレスのドイツ倶楽部で行った「最近十年間の独逸の化学」と題する講演5)の中で,次のように述べている。
 「火薬の製造に硝石は不可欠であるが,戦争の勃発した八月には,ドイツにおける硝石の貯蔵は今までにないほど欠乏していた。それは農家が春の需要を満たした後であったからである(輸入チリ硝石の肥料としての消費を指している)。アンモニアを原料に硝石を製造する方法は知られていたが,短期間に大量の硝石を工場生産することは困難であった。ある敵国の新聞は,ドイツがアンモニア合成に成功し,硝石製造の原料を十分に自給出来るに至った時機を選んで戦争を始めたと主張したが,これは事実を枉げるものである。
 何故なら平時わが国のコークス工場から生じるアンモニアの量は,チリ硝石の全生産額の四分のーにも達するほど大量であり,開戦後の一年目に消費した割合で軍用に必要な硝石を供給するのに,合成アンモニアを待たずとも足りたからである。従ってもし戦争の勃発を予見していたならば,われわれはまずアンモニアから硝石をつくる工場(アンモニアの硝酸への酸化を指している)の建設を完成していたはずであるが,だれもそのようなことは考えていなかった。
 合成アンモニアの役割は他にあったのである。戦争中合成アンモニアは大増産されたが,それは絶えず増大する軍用を満たし得ただけでなく,その余剰をもってよく農業用窒素の需要を戦前の半分程度まで満たし,もって敵国の持つ最も恐ろしい武器,すなわち飢餓に抗し得たのである。」
 しかしボッシュは後に,「もしあのとき新しい触媒(アンモニアを硝酸に酸化する触媒を指す)をわれわれが手にしていなかったら,戦争は1915年に終わっていただろう」と語ったと伝えられている。

References

1)L. F. ハーバー著,鈴木治雄監修 佐藤正弥,北村美都穂訳 世界巨大化学企業形成史 日本評論社 1984 130-150頁

2)川島禄郎著,肥料学 西ヶ原刊行会 1929 500頁

3)中村健次郎,斉藤辰雄著 肥料 ダイアモンド産業全書 1950164頁

4)広田鋼蔵 アンモニア合成法の成功と第一次大戦の勃発 現代化学 1975年2月号 60頁

5)フリッツ・ハーバー著,田丸節郎訳
  ハーバ一博士講演集-国家と学術の研究1最近十年間の独逸の化学(1923年12月4日 ブエノスアイレス独逸倶楽部における講演)
  日独文化協会編 岩波書店(1931)

 

 

抑制キュウリにおける被覆燐硝安加里肥料を用いた
植穴全量基肥施肥技術

宮崎県総合農業試験場 土壌環境部
部長 横山 明敏

Introduction

 施設園芸を中心に土壌消毒剤としてこれまで利用されてきた臭化メチル剤が,モントリオール議定書に基き2005年に植物防疫に用いる勲蒸やメロンの黒点根腐れ病等の不可欠用途等を除き利用が制限されつつある。このため土壌消毒の方法として,クロールピクリン剤等の検討が行われているが,冬期の消毒期間など解決しなければならない課題も多い。またその他の消毒法として蒸気消毒や温湯消毒が導入されているが,これらについても処理時間,コスト等の問題が残されている。

 そこでこれらの消毒法とは別に宮崎県では,従来の陽熱消毒にかえて改良陽熱消毒法が,施設野菜栽培を中心に行なわれている。この方法は図1に示すように施肥後畦を作り定植できる状態にして陽熱消毒を行う方法である。この方法では,40℃で2週間程度地温を確保することが出来れば,臭化メチルと同等以上の効果が期待できるが,しかし,ハウス中央部では40℃を上回るもののハウスサイド部では40℃を下回る場合もある。その結果,周辺部からの再汚染で消毒効果が劣る場合もある。このため陽熱消毒後は出来るだけ土壌を動かさないことが望ましい。また定植の約2ヶ月前に施肥するため,この間の肥料の動態についても不明な部分が多い。

 そこでこれらの問題を解消する方法の一つとして被覆燐硝安加里肥料(以下ロング肥料)を用いた植穴全量基肥法について抑制キュウリにおいて検討したのでその概要を紹介する。

2. Testing Method

1)試験場所及び土壌:宮崎県佐土原町宮崎総農試ハウス,細粒灰色低地土(造成相),CL
2)供試品種:キュウリ(穂木:シャープ1,台木:ひかりパワー)
3)試験規模(1区㎡,栽植密度):6.93㎡(H14),5.39㎡(H15),畦幅140cm,株間55cm,1条植,2反復
4)試験区の構成:表1

5)耕種概要:
  H14年 施肥:堆肥:7/31,植穴施肥:9/30,対照区基肥(陽熱消毒前):8/7,追肥:10/21,11/7,11/25,12/12,12/27,1/14,播種:9/5,定植:9/30 ,収穫期間:10/29~1/29
  H15年 施肥:堆肥:8/22,植穴施肥:9/29,対照区基肥(陽熱消毒前):8/28,追肥:10/31,11/14,12/3,12/16,12/26,1/15,播種:9/3,定植:9/29,収穫期間:11/1~2/6
  植穴施肥法:定植苗直下15cm程度を堀り,肥料を施用後土壌を2cm程度埋め戻した後に定植を行った。

3.試験結果と考察

 平成14年度の試験結果では,20節前後の摘心栽培であるため草丈等に大きな差は認められなかったが,図2に示すように栽培終了時の茎葉重では植穴標準>植穴50%減肥>対照の順で重かった。総収量及び上物収量は,表2に示すようにいずれも対照>植穴50%減肥>植穴標準の順で生育量を反映しなかった。植穴施肥区は,やや減収となったがその差は比較的小さかった。各区とも収穫始めの収量は高いものの,その後はやや低い水準で推移し生育後半にやや上昇した。

 窒素の吸収量は対照区と植穴50%区がほぼ同等で植穴標準ではやや低い値となった。この原因として施肥位置の水分状態が低かったことが考えられるので,今後かん水量等について検討する必要があると考えられた。

 平成15年度には,ロング肥料の種類を70日,100日,40日と100日混合区(2:8)に変えて試験を行った。

 栽培終了時の茎葉重は,図3に示すように植穴施肥区が対照区を上回り,1年目と同じようにやや勝る結果となった。一方,収量は,表3に示すように区間による差がほとんど見られず,植穴施肥で30%減肥しても対照区と同等の収量を得ることが出来た。また旬別収量の推移を見ると12月中旬の落ち込みが対照区で大きく,その後の回復も対照区より植穴施肥区がやや早かった(データ省略)。

 植物体の窒素吸収量は,図4に示すように植穴70日30%減肥区が最も高く,次いで植穴混合30%減肥区と対照区が同等で植穴100日30%減肥区はやや低い値であった。リン酸や加里の吸収量も窒素と同様の傾向を示した。また植穴30%減肥区は,いずれも窒素施肥量を上回る吸収量であった。

 ロング肥料の溶出率は,図5に示すように1年目では溶出日数100日タイプでは120日経過後でも,窒素55.3%,リン酸18.8%,加里44.7%であった。実際に植穴施肥した肥料の溶出率を調べたところ,窒素で35%程度しか溶出しておらず,かん水法等との関連で検討を行う必要がある。2年目では,溶出日数40日タイプの肥料では,11/19(50日後)には窒素で68.9%溶出し,栽培終了時の2/6(129日後)には,窒素では98.4%,リン酸では68.5%,加里では90.5%で栽培の前半でほとんどの成分が溶出したことがわかった。溶出日数70日タイプの肥料では栽培終了時の2/6には,窒素では92.9%,リン酸では57.0%,加里では79.7%であった。溶出日数100日タイプの肥料では栽培終了時の2/6になっても,窒素では66.0%,リン酸では28.6%,加里では49.9%であった。また実際に植穴施肥した肥料の溶出率を調べたところ,70日タイプでは,窒素で55%程度,100日タイプでは,窒素で34%程度しか溶出していなかった。

 このように埋設法による窒素溶出率と実際に施肥した肥料の窒素溶出率には大きな開きがあることから,施肥位置へのかん水方法や施用法について検討する必要があると考えられた。またこのような状況下においても30%の減肥が可能なことから,施用法によっては更に減肥率を向上させることが可能と考えられた。

 ロング肥料の窒素の溶出率を簡易に推定するために埋設したロング肥料の重量を105℃で約5時間乾熱し秤量すると,乾燥重量と窒素溶出率との間に高い正の相関が見られ,ロング肥料の乾熱重量を秤量することで簡易に窒素の溶出率を推測することが可能であった(データ省略)。

4. Conclusion

 ハウス抑制キュウリにおいて,ロング肥料を用いて植穴施肥を行ったところ,30%から50%減肥しても対照区と比較して生育はやや勝り,収量はほぼ同程度を得ることが出来た。また施肥窒素量以上に窒素が吸収されていることから施肥効率の高い施肥法であることが伺われた。しかし,埋設法によるロング肥料の窒素溶出率に比べ,実際施用した肥料の窒素溶出率には大きな開きが見られた。このことから施肥位置へのかん水量を増やすことや土壌と混和を行うことで施肥窒素がより溶出し易くし,更に減肥率を高めることが出来ると考えられた。

 

 

旧加賀藩政時代の虫塚から学ぶこと(続編・その1)

石川県農業総合研究センター
資源加工研究部 生物資源グループ
専門研究員 森川千春

 石川県小松市の埴田町と岩渕町に天保年間建立の虫塚がある。この地域(当時は能美郡徳橋組)を支配していた十村役・田中三郎衛門によるものだ27)。十村役とは名主・大庄屋に相当する加賀藩独特の役職である6)。農民の中から有力な者が任命され,三代藩主・利常の時代に確立された改作法のもと,郡奉行,改作奉行の指揮により農村支配・年貢収納を担当した44)。以前,この二つの虫塚について「旧加賀藩政時代の虫塚から学ぶこと(前編・後編)」58,59)として紹介した。

 「前編」では,埴田の虫塚の碑文が,わずか175文字の中に極めて多くの情報を含み,現代にも通用する,簡潔明瞭な科学論文であることを検証した。「後編」では二つの虫塚を正・副の一対と考え,碑文の175文字:122文字の比率がそのまま,それぞれに埋められた虫の23俵:16俵という比率に一致していることを示し,碑文は後世への教訓を残すだけでなく,呪術的な悪霊封じも兼ね合わせていると考えて,二つの虫塚が建つのと同じ方角,すなわち戌亥(北西)と辰巳(南東)にそれぞれ「高根祭」と「辻固め」という悪霊除けを行う愛知県の「花祭り」との関係を考察して,二つの虫塚は一対で「結界」を形成したもの,との推定を行った。

 ここで当然さらなる疑問が残るであろう。「そもそも虫を23俵:16俵という比率で分配したのはなぜか」「163cm:135cmという高さの比に意味は無いのか」ということである。これについても,ある結論に達していたのであるが,あまりにも呪術的であったために「農業と科学」への掲載をためらった。近年「科学を装った呪術」があまりにも多いからである。しかし傍証を積み重ねるにつれて,虫塚の建立は真撃な「呪術を装った科学」であると考えるに至り,ここに続編として私・試案を提示したい。

<二つの虫塚の比率が意味するもの>

 まず二つの虫塚のデータを再確認しよう。(碑文は図1参照)

埴田の虫塚
 高さ:163cm(+今は土中にある礎石:文献によると1尺)
 碑文文字数:175文字
 埋められた虫の量:23俵
 当初建立されたままの位置に建つ

岩渕の虫塚
 高さ:135cm(礎石なし)
 碑文文字数:122文字
 埋められた虫の量:16俵
 「西光寺跡」から明治時代に移築されている

 さっそく,「23俵:16俵」に分配したのはなぜか?というところから考察を始める。23÷16=1.4375(この俵数比にあわせ以下,比率は小数点5位の四捨五入で用いる)。期待した黄金比1:(1+√5)/2≒1:1.6180ではなかった。しかし,日本古代建築や伽藍配置に見られる大和比1:√2(1:1.4142)があった(ピラミッドは黄金比とともに大和比も兼ね備えている)4)。少し値が違うが,この総俵数ではこれ以上,大和比に近似できない。大和比に従って虫を入れた俵を分配したのではないか。

 さらには,なぜ,埴田にだけ礎石があるのか?石分の高さを加えると163cm+30cm=193cm,高さの比は193cm÷135cm≒1.42960。これまた大和比に近い値,そして俵数比により近い値になる。礎石は大和比に近づけるために付け加えたものではないのか。大和比よりも俵数比に近いのは虫の霊を「封印」するため”実際の俵数比を重視した”と考える。すなわち1.4375倍の虫を1.4142倍で封印するのは重さが足りない,バランスが悪いということである。俵数比で逆算してみよう。

 193cm÷1.4375≒134.26cm,誤差は約0.74cm(7.4mm!:換算すれば約0.25寸)である。同様に碑文文字数の俵数比による逆算は,175文字÷1.4375≒121.74文字,誤差は約0.26文字である。俵数・文字数・高さの比は統一されていると考えるべきだ。

 そしていよいよここで,虫塚の「伽藍配置」である。二つの虫塚の位置を対角に置く四辺形を考える。この東西辺:南北辺=1:√2とすると,今は移築されている岩渕の虫塚のあるべき位置は,岩渕の表通りにピッタリと重なってくる(図2・網掛け・y部分)。まさにこれこそ域外からの悪霊の侵入を遮断する「辻固め」であったのだ!

 当時の作業順序は,おそらくこの逆を辿ったであろう。
①まず大和比(1:√2)の位置に二つの建立地を決定する。
②高さの比も文字数比も当初は√2倍であった。
③虫を入れた総俵数から1.4375倍までしか近似できないことがわかり,礎石によ
り約1.4375倍となるよう高さを調節する。
④碑文の文字数も再調整し約1.4375倍に近づけるよう変更した。

 碑文の中には,この変更の”痕跡”が残されている。埴田の碑文は「稲多枯」「及難儀」など漢文調が入っているのに対し,岩渕は「悉稲ヲ枯シ」「ナンキニ及」のようにカナを多用した読み下し文調になっている(図1)。それゆえ,埴田でカナであったものを岩渕で漢字にするのは不自然と考える。該当するのは2箇所。すなわち岩渕の碑文の「木綿」「早ク」であるが(図1),これを「モメン」「ハヤク」のカナに戻すと,2文字増える。122文字+2文字=124文字,これが元の碑文だ。175文字÷124文字≒1.4113,これ以上,大和比に近似させるのは困難である。この場合の大和比による逆算は175文字÷1.4142≒123.74文字,誤差は約0.26文字である。

 虫塚の設計,配置は大和比に基づいている。この比率は当時としては決して特殊なものでも,珍しいものでもない。大工の用いる指金(曲尺)は,表面に尺寸が,裏面には尺寸を√2倍した目盛り(裏目)が刻まれていた4)。しかし,石碑の高さという構造物だけでなく,俵数と碑文文字数も関連させ,さらには長辺でおよそ2kmにおよぶ広大な範囲の配置にまで用いたところに特異性がある。

<岩渕の虫塚はどこにあったのか?>

 岩渕の虫塚の建立地「西光寺跡」について一つの議論があった。「埴田の天山」捜し59)でお世話になった縁で,山越隆館長から,平成17年1月23日に小松市立国府公民館の歴史研究会の会合にお誘い頂いた時のことである。「岩渕の表通り沿いで東の村境付近(図2・y)」と「大和比」による推定に対し,研究会会長・高酋外氏によると「山寄りの斜面の近くにあり崩れそうになったために一回だけ移築した」とされる一方,同研究会の重鎮・中梅子氏によると「山寄りではなく平地であり,現在の位置と川を挟んで反対側,ケアハウス前の水田になっている場所にあった」との説で一致をみなかった。しかし全くの私見であるが,後日考えるに,この全ての条件をほぼ満たす場所があったのである。「斜面の下」ではなく「斜面の上」と考えればよいのだ。

 岩測に入るにはケアハウス前を右折して滓上川(「滓上」は白山本宮に祀られていた地神「糟神」のこと10))にかかる岩渕大橋を渡った59)。川の両岸は落差5メートルはある”急斜面”である。治水の悪かった時代を考えると,水嵩が増すと崩れ落ちそうだ。すなわち「ケアハウス前の滓上川右岸近く・岩渕大橋付近から下流域約300mの区間」(図2・x)で3つの条件「崩れやすい斜面の近く」「川の右岸ケアハウス前の水田になっている平地」「大和比」が満たされるのである。

<大和比と結界の意味>

 ここで,大和比に基づいた配置が結界の形成に持つ意味を考えてみたい。1:√2という四辺形は正六面体の内部を斜めに横断する面に一致する4)(図3)。正六面体を45度回転させると,この面を結界に収めるべき土地に相当させることができる。地下も上空もピラミッドを思わせる形状の結界で保護する形となる正六面体の中央に四辺形は位置するのである(図4)。

 このような結界の形成を考えると「岩渕」という立地がもう一つの意味をもってくる。岩渕の東隣,原村の仏御前の崇りの伝承である。京の都から故郷・原村ヘ戻った仏御前が妊娠したという噂を立てられ抗議の自殺をした,または嫉妬に狂った村の女たちに殺され,そのとき妊娠中であった,ということから「此村に産婦ある時,必ず窓を閉る,若し閉ぢざれば大風吹と里人言傳ふ」(緩帯編)「此村に孕む者あれば,由縁々々に他の村に引越し子を産みて後帰る,若佛が原村にて産をすれば,必ず大風吹きて作毛を損ふ,是を原風といふ」(三州奇談)と伝えられる9)。出産時窓を閉めきらなければ,あるいは村外の縁者を頼って引っ越して出産しなければ「作毛(稲穂の稔り)を損なう大風」がおこるのだ。

 天保七年八月十三日に大風雨があり能美郡にて出火,同十五日米穀欠乏により食料品の領外への輸出禁止令,同九月六日には商人が米穀買い占めと密輸により斬刑に処せられた49)。翌・天保八年にも徳橋組は大風にみまわれている27)。天保十年の建立に際して,原村は結界の外に置かなければならなかった。原村に対して結界をはる必要があったのだ。これは原村村民の村外での出産の安全を図るものでもあったであろうし,それよりなにより,結界ができた後の大風の原因は原村ではないことになる。原村の風評被害を封じる目的もあったのかもしれない。岩渕の虫塚推定ラインの延長は仏御前の墓所をかすめている(図2)。

<陰陽道と虫塚>

 東西南北に正対した大和比の四辺形を用いた結界による除災,を成し遂げた背景は何だったのだろうか。十村役・田中家が父祖とする鬼一法眼は「義経記」に「陰陽師の法師」とある。次回(続編・その2)では「陰陽道」と「虫塚」の関係について考察する。

<引用文献は,(続編・その3)に一括掲載します>